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六度の隔たり(1)

 イースト夏美は、台所のテーブルに座り、テーブルの上にある白い封筒を前に考え込んでいた。そこを後から、「ワッ」と背中を押されたものだから、飛び上がってしまった。驚かした犯人はだれかと振り返ると5歳になる息子のトムだった。
「驚かさないでよ」と言うと
「ママ、何しているの?」
心配そうに夏美の顔を覗き込むやんちゃ息子を見て、夏美は5歳のトムが心配するほど、考え込んでいるように見えたのかと思うとおかしくなった。
「何でもないわよ」とトムの柔らかくて細い茶色い髪の感触を楽しむように頭を撫でながら言った。
「さあ、今からケーキを作るわよ。手伝ってくれる?」と言いながら、椅子から元気よく立ち上がった。
「うん」トムの元気な声が返ってきた。トムは、容器に残ったドロッとしたケーキの材料をこねたものをスプーンでこすりとって食べるのが好きなのだ。だから、ケーキを作ると言うと頼まなくても手伝ってくれる。小麦粉とミルクと砂糖の分量をはかってボールにいれ、その中に卵を入れて、電気ミキサーでかき混ぜていると、トムが言う。
「ねえ、ママ。ナナ(おばあちゃんの意味)に、ケーキを持って行ってあげようよ」
「そうだね。そうしよう」
夏美は今朝会った元姑のジーナから頼まれたことを、どうしたらいいものかと考えていた。ジーナを元姑と言うのは、ジーナの一人息子、つまりトムの父親、デイビッドは3年前に亡くなり、去年ギャリーと再婚したからジーナは元姑ということになる。夏美が再婚するとジーナに報告しに行った時、ジーナはショックを受けたようで、その時、再婚してもトムのために苗字を変えないでほしいと懇願された。ギャリーに相談すると、「苗字なんて、ぼくはどうでもいいよ」と言ってくれたものだから、今でも前夫の『イースト』という苗字を名乗っている。
今朝会社に出かけようとしていた時、ジーナに食事を運んでいるボランティアの女性から電話があり、ジーナの容態がおかしいので、救急車を呼び病院に運んでもらったと連絡があった。夏美はデイビッドの死後、生計をたてるために知り合いがいた日本企業に受付として勤め始め、再婚した今でも、勤めをやめないでいる。会社に今日は遅刻しますからと断りの電話を入れた後、慌てて病院に駆けつけたが、ジーナは思ったより、元気で安心した。その時、「夏美さん、お願いがあるんだけど、聞いてもらえるかしら」と深刻な顔で言われた。何か面倒なことを頼まれるような気がしてちょっと躊躇したが、言葉が先に出ていた。
「勿論ですよ。お願いだなんて、そんな水臭いこと言わないでくださいよ」
「私のベッドルームのサイドテーブルの引き出しの中に『ベン・マッケンジー様へ』と言う封筒があるから、それをベンと言う人に届けてほしいの」
「ベンと言う人?どなたですか?」
今までジーナから一度も聞いたことがなかった名前を耳にして、私は怪訝な顔をした。
70にもう手が届こうというジーナは、少女のように顔を赤らめて恥らうように言った。
「ベンはね、実は私の初恋の人なの。夫のダンが亡くなった後、どういうものかベンに会いたくなって、彼宛のラブレターを書いたの。でも、彼に出した手紙が戻ってきてしまって、今どこにいるのか分からないのよ。だから、もう彼に連絡を取ることを一旦はあきらめたんだけど、今日病気で倒れて、私もいつ死ぬか分からないと思うと、死ぬ前に会いたくて仕方がなくなったの。あなたが彼を探して渡してくれたら、これほど嬉しいことはないわ。こんなことを頼めるのはあなたしかいないのよ。」
いつも家族のために生きているように思えたジーナにそんな秘めた情熱があったのかと思うと意外であった。
「へえー、ジーナにもそういう人がいたんですか。どんな人なんですか、その人は?」
驚きで目を白黒させている私を見て、ジーナの顔に苦笑いが浮かんだ。
「ベンとは私が18歳の時会ったの。その時、私はまだイギリスのヨークに住んでいて、高校を卒業した後、ヨークの街の小さなお土産物屋で働いたことがあるんだけれど、ベンはそのお土産物屋の隣の高級陶磁器を売るお店の店員をしていたわ。時々お昼ごはんを一緒に食べて一緒に映画を見に行ったり、デートを楽しんだりして、婚約までしたのよ。でもね、ある日突然結婚したら世界旅行に行けないだろうから、結婚する前に友達とジープを買って、一年間の世界旅行をしたいって言い出したのよ。ベンが冒険好きな人だとは知っていたけれど、まさか一年も旅行を計画しているなんて思いもよらなかったわ。一年も待てないから世界旅行なんて行かないでって泣いて頼んだんだけど、結局は私の懇願も振り切って行ってしまったわ。私はベンの冷たい態度に腹を立てて、すぐにダンと結婚して、オーストラリアに来たんだけれど、ダンにもデイビッドにも先立たれてしまったら、とたんに昔のことが思い出されて、ベンはどうしているのかと気になって仕方なくなったの。まだ彼が生きていたら、いつも彼が好きだったってことを伝えたいの」
夏美は、ジーナの話を聞いて、自分を本当の娘のように可愛がってくれるジーナのために一肌脱ごうと言う気になった。
「任しておいてください」と安請負をして、ジーナの家からそのラブレターを持って帰ったものの、見も知らぬベン・マッケンジーなる人物をどうやって見つけたらいいのか、夏美には見当もつかなかい。だから、ジーナの家から持ち帰った『ベン・マッケンジー』当ての封筒を見て、ため息をついていたわけである。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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