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六度の隔たり(21)

~~その日も、ベンは緩慢な動きでジーナの前の椅子に座った。しかめ面は前の面会の時と全然変わっていなかった。
「元気だった?」と、いつものようにジーナが会話を始めた。ジーナが話しかけない限りきっとベンは何時間でも黙って座っているに違いない。
「ああ」気のない返事は以前と変わらなかった。
「ねえ、奥さんは何の病気だったの?」
ジーナがそう聞くと、つらい記憶を呼び戻したかのようにベンの顔がゆがんだ。
「ごめんなさい。あなたにとっては思い出したくないことよね。答えたくなければ、答えなくていいのよ。ちょっと知りたかっただけだから」慌ててジーナは付け加えたが、驚いたことにベンは座りなおしてじっとジーナの目を見ながら答えた。
「胃癌だったんだ。胃の調子がおかしいと病院に行った時はもう手遅れでね。医者は化学療法や放射線療法をしても、もう体全体に癌細胞が広がっているから、そんなことをするよりも家で安らかに死なせてあげるほうがいいと言ったんだ。ニーナも病院で死ぬのはいやだというので、家に連れて帰ったんだ。最初の頃はまだよかったんだ。鎮痛剤が効いていたからね。でも、段々鎮痛剤の量を増やさなければ痛みがおさまらなくなって、最後にはどんな鎮痛剤も効かなくなって、苦痛でのた打ち回る毎日が続いたんだよ。そして、『殺してくれ』って泣いて頼むんだ」
ここまで言うとベンは下を向いてくっくっと言う声を出した。最初は笑っているのかと思ったが、泣いていたのだ。ジーナは悪いことを聞いてしまったと後悔した。
「ごめんなさい。もういいわ、答えなくても」ジーナも下を向いて小さな声で謝った。
ジーナの声が聞こえなかったのか、ベンはそのまま話を続けた。
「ニーナを安楽死させてやろうと決心するまで一週間かかったよ。安楽死合法化の推進者として有名な医者に連絡を取って、安楽死のさせ方を教えてもらったんだ。そして薬を買って、ニーナが苦しみ出した時に、その薬を注射で打ったんだ。そしたら、そしたら、、」涙声になって後が続かなかった。
「もういい。もう何も言わなくていいわ」とジーナは思わずベンの両手を取って、握り締めた。面会時間が切れるまで、ジーナは黙ってそのままベンの手を握っていた。ベンもうつむいたまま、何も言わず、ジーナに手を握られていた。
家に帰る道中、ジーナはベンの悲しみがのり移ったような寂しさでやりきれない気持ちになっていた。きっとベンは愛する人を殺したという罪悪感から一生抜けきれないだろう。ベンの抱えている悲しみを丸ごと飲み込んで、彼を包むことができるだろうかと考えると、ジーナは段々ベンに関わることに自信がなくなっていった。
次の面会が許可される日が来た。ジーナはベンに会いに行ったものかどうか迷っていた。夏美のいうことは正しいように思われ始めた。でも、もう会わないつもりなら、それなりにけじめをつけて、ベンにはっきりとさようならと言うべきだと思い始めた。
そう思った次の瞬間、車を刑務所に走らせていた。刑務所への道に今まで気を取られることがなかったが、今日で通うのが最後になるかもしれないと思うと回りの山一つ見えない野原が、雨が当分降らなかったせいか、茶色になっているのに気づいた。そうだ、今日で終わりにしようと、ジーナの決心は刑務所に近づくにしたがって、強くなっていった。
面会時間を待っていると、見知らぬ35歳ぐらいの背広を着た男がジーナに近づいてきた。
「ジーナ?」
男に名前を言われて、ジーナは自分の名前を知っているこの男は一体何者かと警戒心を高めた。しぶしぶ「そうですけど、あなたは?」と言うと、その男は笑顔になって手を差し出して
「僕、キース・マッケンジーです。ベンの息子です」と言った。ベンとは余り似ていないその男は、丸顔でめがねをかけていた。
「ああ、ベンから息子がいると聞いていましたが、あなたでしたか」と言いながらその男の手を取って握手をした。
「父に面会に来てくれたんですね」と嬉しそうに言う顔を見て、これで面会は最後にするつもりだとは言いにくかった。
「ええ」
「僕も本当は毎週来たいところですが、何しろシドニーに住んでいるので、メルボルンまではそう頻繁に来るわけにはいかなくて」と後ろめたそうに言った。
「でも、ジーナさんがきてくださっているのなら、安心です」
どうして一度も会ったことがないキースは自分のことを知っているのだろうかとジーナは不思議に思った。
「どうして、私のことを知っているんです?」
「父のアルバムであなたの写真を見ましたよ。父と婚約をしていたことがあるんでしょ?。母はいつもあなたのことで、妬けていましたよ。父があなたの写真を捨てないものだから」
「え、そんなことがあったのですか。ベンは何言わないので、もう私のことはとっくに忘れていたんだと思いましたわ」
「とんでもない。いつも父は母と喧嘩するたびに、あのままヨークにいてあなたと結婚すればよかったって言ってましたよ」
キースの言葉は意外だった。その時、面会時間が来て、その会話は中断された。そして、いつものように大部屋に入れられ、ジーナはキースと一緒にベンチに腰掛けた。そこに、いつものようにベンがのろのろ気がすすまないような様子で現われ、ジーナとキースの向かいに座った。
「父さん、ジーナさんが来てくれていたんですね。よかったですね」
「ああ」
「父さんの出所は来月だということだけど、出所した後、どうするつもり?」
ジーナはつい先日まで、一緒に暮らさないかと誘おうと思ったのが信じられないくらい、他人事のように黙って二人の会話を聞いていた。
「父さんの家は他人に貸しているから、そこに住む気だったら、借家人に出てもらわなくてはいけないんだけど、どうする?シドニーに来て僕と一緒に暮らす?」
ベンは即座に「いや、自分の家に帰るよ」ときっぱりと答えた。
キースはそれを聞くと、今度はジーナに顔を向けてきいた。
「ジーナさんは、どこに住んでいるんですか?」
なぜこんなことを聞き始めるのか戸惑い、どう答えようかと思うより先に口から答えが飛び出していた。
「クレイトンですけど」
「ああ、それじゃあ父の住んでいるウッドエンドからは随分ありますね」とキースはメルボルンの地名は全部知っているといった自信満々の口調で言った。
ジーナはちゃんと出所する日を聞いていなかったことを思い出して聞いた。
「いつ、出所するんです?」
「来月の10日です」ベンが答える前にキースが答えた。
「ジーナさん、父が出所する日、一緒にどこかのレストランで三人で出所祝いをしませんか?」
キースがジーナがベンと親しくなってくれるのを望んでいることがありありと窺えた。面会に来る前は、もうベンの人生から姿を消してしまおうと思っていたのに、キースの出現によって、またジーナはベンの人生に引き込まれていきそうな気配を感じた。
「ええ、いいですね。そうしましょ」仕方なくジーナは答えた。
「父はローストビーフとヨークシャープディングが大好きなんです」
そういえば、昔ベンと一緒に出かけた夜はいつもローストビーフを食べたことを思い出した。ベンは今も変わっていないようだ。
「ローストビーフはともかく、オーストラリアでヨークシャー・プディングなんか出しているレストランなんてないでしょ?」とジーナは聞いた。プディングというと甘い食べ物を思い浮かべる人が多いが、ヨークシャー・プディングは小麦粉を肉と一緒に焼いた物で、脂のたっぷり入った塩辛い何も中身が入っていないパイのようなものである。
「それが、あるんですよ。今度そこに行きましょう。ねえ、父さん」とベンを見て、キースは言った。キースが陽気に話すのとは対照的に、出所することになって喜ぶべきはずのベンの顔は相変わらず暗かった。別れを告げるつもりだったジーナは、キースのおしゃべりでそのチャンスを失い、面会は時間切れとなった。
刑務所を後にして車に乗ろうとした時、後ろから肩を叩かれ、誰かと思って振り向くとキースだった。
「よかったら、電話番号の交換をしませんか?これ、僕の電話番号です」と言って名刺を出した。名刺にはファイナンシャル・アドバイサーと肩書きが書かれていた。
ジーナは名刺など持っていなかったので、手帳の紙を破って電話番号を書き、キースに渡した。
キースは「じゃあ、またお目にかかりましょう」と手を挙げてジーナに別れを告げ、タクシー乗り場に急いだ。
結局キースのペースに巻き込まれた形で、いつの間にかジーナはベンとキースと出所祝いをすることになったが、ジーナはこれでよかったのかどうか判断しかねた。
著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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