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百済の王子(9)

 高台の宴では、 豊璋の側には蝦夷の側女と思われる若い女が座って、酌をしてくれた。
「義慈王様は、いかがされておられますか?」
 豊璋は父のことを余り思い出したくなかった。自分や母、妹や弟たちを城から追い出し、寵妃に生ませた長男の隆を太子にしてしまった父に対して、恨みはあっても愛情を感じなかった。しかし、父に対する陰口を叩いて、それが父の耳に入ったならば、それこそ本国に呼び戻されて殺されかねない。ここは当たり障りのない返事をしたほうがよさそうだと、 豊璋は判断した。
「相も変わらず、新羅との国境の城の取り合いに明け暮れております」
「百済は、新羅、高麗と周りを囲まれ、油断なりませんからなあ。暮らしの上で何か不自由をされていることがあれば、この蝦夷に、何なりともご遠慮なくお申し付けくだされよ」
「お心遣い、かたじけなく存じます」
 豊璋達が挨拶を交わしていると、どたどたと大きな足音が響いたかと思うと、狩装束をした大きな男が入ってきた。
「おお、入鹿、参ったか。お客様はすでにおいでだぞ」と、蝦夷がその男に声をかけたので、すぐに、蝦夷よりやり手だと言われる、蝦夷の息子、蘇我入鹿だと、 豊璋は推測した。
その男は豊璋の前に座ると、
「これは、 豊璋殿と禅広殿、よくおいで下された。我は蘇我入鹿と申し、太政大臣を務める者でござる」と言って、頭を下げた。
「今まで何をしておった?」と蝦夷が聞くと、
「狩に参っておりました。キジを獲りましたので、私のキジをお客人に振舞いましょう」と言って、手にぶら下げていた、矢に射たれて首がダランと垂れたキジを、側にいる給仕の女に渡した。いかにも豪快な感じのする男であった。
「入鹿殿は、狩がお得意でおられるのですね」と 豊璋が言うと、横から蝦夷が、
「入鹿が得意なのは狩だけで、武芸のほどは、たいしたことはございません」と答えた。それを受けて入鹿は、
「武芸の秀でた者を護衛として雇っておりますから、我が武芸に専念することはございません」と答えて、豪快に笑った。
 豊璋は最初緊張していたが、酒が回るにしたがって、心も軽くなり、蝦夷たちとの談笑を楽しんだ。
その日、日が暮れる前に、帰りの挨拶をすると、門の前に、荷物の山が置かれていた。
蝦夷は「これは練り金20斤でござる。手土産として、用意いたしました」と、 豊璋に言った。 豊璋が、驚いていると、蝦夷は従者に何か小声で命じた。従者はうなづくと、すぐに馬を連れてきた。毛並みのよい黒々とした馬で、 豊璋が見ても一目で良馬だと分かった。
「これをお近づきのおしるしに差し上げます。わが屋敷にいらっしゃるときは、この馬をご利用なされませ」
 豊璋は、蝦夷の好意に感激して、顔がほころびた。
それから1ヶ月とたたないうちに、また蝦夷からの使いが来た。今度は騎射をお見せしたいと言う。
5月5日は、暖かく、よく晴れていて、騎射の見物には絶好の日だった。
その日、招待されたのは、 豊璋だけではなかった。皇極天皇の次男の大海人皇子も招待されていた。大海人皇子の隣の席を与えられた豊璋は、自然と大海人皇子と話す機会が多かった。
大海人皇子は、馬に乗ったつわものたちが、馬を走らせながら矢を放ち、その矢が的に当たるごとに歓声をあげながら拍手喝采をした。大海人皇子は無邪気なティーンエージャーという感じであった。 豊璋は、この無邪気な皇子がすぐに好きになった。大海人皇子も 豊璋に好意を見せ、
「今度、二人で飛鳥に狩にでかけましょう」と、狩に誘ってくれた。そばで、大海人皇子の誘いを聞いていた蝦夷は、
「飛鳥に行くとは、また額田王様に会いにおいでになるのでしょう。狩は額田王様に会うための口実ではありませぬか」と、からかうように言うと、純真そうな王子は、顔を少しあからめて、
「何を言う」と、怒ったように言った。
 豊璋は、日本の朝廷のことはよく分からないので、額田王という名前は初めて耳にした。
「額田王様と言われるのは、どなたのことですか?」
大海人皇子が答える前に、蝦夷が答えた。
「和歌の才能溢れる、美貌のほまれ高い、皇極天皇の官女です」と、蝦夷はほほえましそうに答えた。
 豊璋は額田王と言うのは、どんな女性だろうかと興味がわいた。この純情そうな王子の心をとりこにするのはさぞかし魅力的な女性に違いない。豊璋は額田王に会えると思うと大海人皇子との狩りを心待ちするようになった。しかし、大海人皇子と一緒に狩に出かけるのが実現したのは、ずっと後のことであった。

著作権所有者 久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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