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ああ、モンテンルパの夜は更けて(後編)

フィリピンはカソリック教徒の多い国である。キリノ大統領も敬虔なカソリック教徒だと伝え聞いた加賀尾は、ローマ法王にも戦犯の助命嘆願書を支持してほしいと手紙を書いた。ローマ法王は、加賀尾の「許しこそが世界の平和をもらたすものです」と言う文章に感銘を受け、キリノ大統領に、戦犯釈放をするようにと口添えしてくれた。加賀尾は、「日本人の処刑に関しては考慮します」とキリノ大統領から返事が来たことを、ローマ法王から知らされた。しかし、そのあとも大統領から減刑とか釈放と言う話は全く出てこなかった。

加賀尾は日本で集めた嘆願書をもってキリノ大統領に直訴しようと決心した。キリノ大統領との会見が認められたのは、はま子の訪問から半年たった1953年半ばのことだった。キリノ大統領に会うための準備をしていた加賀尾のところに、ある日、はま子から小包が届いた。開けてみると黒い漆器に金色の模様の入っている蒔絵の美しい箱が入っていた。同封されたはま子の手紙には、次のように書かれていた。

「私のファンだと言うオルゴール会社の社長が『モンテンルパの夜は更けて』のオルゴールを特別に2つほど作って送ってくれたので、一つを加賀尾さんにプレゼントしたいと思います」

箱を開けると、あの物悲しいメロディーが流れて来た。その音に耳を傾けていた加賀尾は、やにわにこのオルゴールをキリノ大統領にプレゼントしようと思い立ち、フィリピンに行くために用意していた手荷物の中にいれた。

いよいよキリノ大統領との会見の日が来た。大統領の応接室に通された加賀尾は、緊張でコチコチになっていた。130名の人の運命が変わるかどうかは、自分がいかにキリノ大統領を説得できるかにかかっているのだ。緊張しないほうがおかしい。

「ハロー」と握手するために差し伸べられた大統領の手を加賀尾は握ったが、キリノの硬い表情を見て、一瞬ひるんだ。

「今日は、私のためにお時間を頂き、ありがとうございます。私は今まだ収容されている戦犯を日本に送り返していただきたいとお願いしにまいりました。500万人の嘆願署名を持ってきたのでご覧ください」と、10箱にもなった署名を渡した。しかし、大統領の顔は、無表情なままだった。加賀尾は焦りを感じながら、オルゴールを取り出し、

「これをプレゼントしたいと思いますので、受け取ってください」とオルゴールを大統領に手渡すと、

「これは何ですか?」と不思議そうに加賀尾を見た。加賀尾は箱のふたを開けてみせると、あの「モンテンルパの夜は更けて」のメロディーが流れ始めた。大統領は黙ってそのメロディーを聞き、曲が終わると、聞いた。

「心にしみるメロディーですね。これは何と言う曲ですか?」

そこで加賀尾は「この曲は実は死刑囚が作詞作曲をしたものです」と言って、歌詞を大統領に教えた。そして、「戦犯たちの家族は皆日本で待っております。また本人たちも日本に帰りたがっています。どうか、皆を日本に返してやってください」と深く頭を下げたが、その眼からは涙がぽろぽろ落ちた。

そのあと、どのくらい時間がたったか分からない。とてつもなく長い時間だったように加賀尾には感じられた。しばらく黙っていた大統領が、おもむろに言った。

「加賀尾さん、私は日本軍のために妻も三人の子供も殺されました。そして私自身が日本軍につかまり捕虜となり、毎日拷問されました。だから、絶対日本人を許すことはできないと思っていました。でも、この曲を聞いて、日本兵にも母親がいて、帰りを待っていると思うと、心を動かされました。戦犯をどうするか、考えてみましょう」

そう言った大統領の顔は、最初のにらみつけるような硬さがなくなり、柔和になっていた。500万人の署名にも心を動かさなかった大統領が音楽によって心を動かしたことに、加賀尾は驚くとともに、自分の使命が果たされた喜びに包まれ、

「ありがとうございます。ありがとうございます」とむやみやたらとお辞儀をしながらお礼の言葉を繰り返した。

それから間もなくして、54日本人戦犯にとって嬉しいニュースが舞い込んだ。その年の7月4日のフィリピンの独立記念日に、死刑囚だったものは終身刑に減刑され、他の戦犯は釈放され、全員日本に送り返されると発表されたのだ。大統領の命令による特赦であった。

この知らせを聞いた戦犯たちの歓喜の声が収容所に響き渡った。

「日本に生きて帰れるぞ!」

特赦のニュースを聞いた日本政府府は衆参両院それぞれの本会議でフィリピン政府の寛大な処置に対して、感謝決議を行った。決議書には次のように書かれていた。

「戦犯送還と言う恩恵を与えられたことは、一人本人およびその家族のみならず、日本国民のひとしく喜びとするところである」

加賀尾は念願がかなったことで、感無量であった。しかし、そんな感慨には、長く浸っておれなかなった。皆を連れて日本に帰る手続きをしなければいけなかった。それに処刑されたものも日本に連れて帰りたかった。処刑された17名の遺骨を、遺族のもとに返してやりたいと大統領に願い出ると、大統領は快諾してくれた。加賀尾たちは、土に埋められていた遺骨を掘り起こし、供養して、黒塗りの木箱に入れた。

7月15日、加賀尾は110名の元戦犯とともに、日の丸の旗を掲げた白山丸でマニラ港を出港した。皆囚人服から白いズボン、開襟シャツに着替え、晴れ晴れとした顔であった。その中には勿論代田と伊藤の顔も見られた。短い人でも9年ぶり、長い人にとっては15年ぶりの帰国だった。死刑囚の遺骨は、船の一等サロンに設けられた祭壇に安置された。

1週間の船旅は、帰国者全員、待ちわびる人に早く会いたいと言う思いで、長く感じられた。太平洋の荒波に船酔いを起こす者が続出したが、皆の心は高揚していた。7月22日午前8時半。やっと白山丸は横浜港に着いた。帰国者がデッキに出てみると、港は見渡す限り出迎えの人で埋めつくされていた。帰国者の家族は勿論、見も知らぬ人も、帰国者を歓迎するために来ていた。実にその数2万8千人にもおよんだ。その出迎えの中に勿論渡辺はま子がいた。皆が下船し、はま子との再会を喜び合った後、はまこはおもむろに歌い始めた。

「モンテンルパの夜は更けて、つのる思いにやるせない…」

皆はま子の歌に耳を傾けた。この歌が皆を解放してくれたと思うと、うれし泣きをする者も多くいた。

そのあと、釈放されたものは家族に会うため方々に散り、死刑囚から無期刑囚に減刑された者たちだけが残された。無期刑囚が収容されることになっていた巣鴨プリズンの所長は無期刑囚に言った。

「今から一時間の猶予を与えるから、家族に会って来い。ただし1時間たったら、必ずここに集合するように。解散!」

この所長の言葉は無期刑囚だけでなく、巣鴨プリズン職員をも驚かせ、職員の一人が聞いた。

「所長、もし戻ってこない者がいたら、どうするつもりですか?」

「皆もう長い間家族に会っていないんだ。だから、1時間だけでも、家族に会う猶予を与えてやりたいんだ。もし、帰らない者がいたら、その時は、俺が責任をとるよ」

その職員の不安は杞憂に終わった。全員時間通りに帰って来たのである。

その年の紅白歌合戦で、渡辺はま子は、「モンテンルパの夜は更けて」を歌い、拍手喝さいを受けた。

ちなみに、オーストラリア政府によって裁かれた日本人の戦犯は、今オーストラリア政府の設置している難民収容センターがあるパプアニューギニアのマヌス島に送られて、その島で処刑された人もいるそうである。

参考文献

「プリズンの満月」吉村昭 新潮文庫

文芸春秋2015年9月特別号「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 抄録 岡部長景「巣鴨日記」210-225ページ

文芸春秋2015年9月特別号 「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 A級戦犯・木村兵太郎(刑死)長男の訴え 父を靖国から分祀してほしい」198-205ページ

インターネット検索

「ああ、モンテンルパの夜は更けて」ウイキペディア

「ああ、モンテンルパの夜は更けて」解説

JOG180渡辺はま子 伊勢正臣

渡辺はま子 ウイキペディア

ご存知ですか、見分「モンテンルパの夜は更けて」~BC級戦犯の命を救った人

 

著作権所有者:久保田満里子

 

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2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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