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EMR (11)

一月十四日の朝が来た。前日の40度を越える猛暑のため夕べは全然気温が下がらなくて、朝になっても三十度を越えていた。理沙は夕べはエアコンをつけっぱなしで寝たのだが、エアコンのブーンと言う音がうるさくて、夜何度も目が覚めた。だから、寝覚めはよくなかった。今日の予報は三十七度。普段なら三十七度と聞いただけで暑くてたまらないと感じるのだが、四十四度の猛暑を経験した後では、それほど暑くないなと思うから不思議である。
 理沙はやっと金曜日が来たと思うと嬉しかった。電車に乗って、いつものようにEMRをハンドバックから取り出し、そばに来たアラブ系と思われる浅黒い男の腕にそっと触れた。男は何やら物思いにふけっているようで、理沙が触ったのも、気がつかないようだった。
「とうとう来週の月曜日に決行だな。爆弾の準備もできた。オーストラリア人に、アメリカに加担するとどうなるかを思い知らせてやる。俺たちイスラム教徒を馬鹿にして、俺たちの文化を破壊しようとするにっくきアメリカに加担するオーストラリア人をやっつけ、俺は殉教者になるんだ。やるぞ」
 ここまで聞いて、理沙の胸は、驚きで心臓がドキドキし始めた。心臓の音が大きくて、自分の耳にも聞こえてきそうな感じだ。
「この人は、もしかしたらテロリスト?もし、そうだったら、私、どうしたらいいの?警察に報告すべきかしら?いやいやEMRなんてことは、警察も知らないし、ハリーも公にはしたがらないだろう。そうだ、ハリーにすぐに知らせるべきだわ。ともかく、もっと何か情報が得られないか、このまま聞いてみよう」
 そう決心すると、理沙はこの男の心の声を一言も漏らさないように聞こうと、EMRに全神経を集中させた。
「父さんと母さんにさよならが言えないのが悲しいけれど、きっと僕が殉教したら、喜んでくれるだろう。皆俺のことを意気地なしと思っていただろうけれど、俺のことを見直してくれるだろうな。そうだ。明日ブシュラに会いに行こう。そして、それとなくさよならをしておこう。ブシュラのことを考えるだけで、胸がつぶれる思いがする。この世でブシュラと一緒にはなれなかったけれど、ブシュラは殉教した僕を誇りに思ってくれるだろう」
 理沙は段々イライラしてきた。私が聞きたいのは、何時に、どこで爆弾を爆発させるかと言うことなんだけどと思っていると、その男は電車がリッチモンド駅に着くと、人を押しかき分けて、ドアのほうに向かい始めた。理沙が下りるメルボルン・セントラル駅の二つ手前の駅だ。このまま男を尾行していくと仕事に遅れる。尾行すべきか、諦めるべきか一瞬迷った。男が電車を下りかけたとき、理沙の心は決まり、慌ててその男の後を追った。
 人を掻き分けながら電車を下りて、黒いTシャツにジーパンのその男の後ろ姿を探すと、プラットフォームの階段を下りていくところが見えた。同じ電車から降りた十人余りの乗客に混じって、その男は改札口に向かって行く。男の後ろ姿を見逃さないようにと、理沙も足早で階段を下りて改札口に向かった。男は駅を出ると道路を渡り、まっすぐ北に向かって歩き始めた。誰かに尾行されるというのは念頭にないようで、振り向きもしなかったので、尾行は比較的簡単に出来た。
 十分ばかり歩いたところで、男が店の中に入った。店の名前を調べるために、理沙はその店の前をゆっくり歩いた。ガラス張りのショーウィンドーの中を覗こうとしたが、中は薄暗く、何も見えなかった。ガラス窓の上の看板には「ジーンズ・オンリー」と書かれていた。後で、電話帳で住所を調べればいい。
 理沙は店の名前を確かめたところで、踝を翻してリッチモンド駅に引き返した。駅
に着いて時計を見ると八時十分になっていた。

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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