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木曜島の潜水夫(最終回)

慰霊塔設置後も、木曜島には、時おり日本からトミーを訪ねてくる人たちが絶えなかった。茂木夫妻もそのうちの二人である。
トミーが茂木夫妻に初めて会ったのは、1981年のことだった。茂木夫妻は、結婚25周年を記念して、オーストラリア一周旅行を計画し、豪州における日本人の歴史を訪ねて旅をしていた。その旅の途中で、夫妻はレインボーホテルに泊まったのが、出会いのきっかけとなった。その時、夫妻はトミーに、元潜水夫たちの墓参りをしたいので、墓場に連れて行ってほしいと頼んだ。するとトミーは「どなたか元潜水夫とお知り合いだったんですか?」とたずねた。「別に知り合いもいないし縁者でもありません」と答えると、「故人と関係のない方がお参りに見えたのは、あなた方が初めてです」とトミーは驚いたように言った。トミーは夫妻を日本人の慰霊塔に案内したが、その慰霊塔の背後には、朽ち果てた木の墓標がたくさんあった。トミーは、その朽ち果てた墓を夫妻に見せながら、「私はこの墓を抱えて死んでも死にきれないほど心配しているのです。私以外に墓の掃除をする人がいないんですから」。夫妻はトミーの言葉に打たれ、何とか木の墓標を保存する方法はないものかと模索し始めた。その結果、木の墓を、かたい崩れない材木に名前を印刷して一本一本建てかえることにした。それからは、夫妻は毎年木曜島を訪問し、資金援助に協力した。トミーは丹念に白く塗った角材200本に名前を記し、ラッセルやトーマス、そして珠代とチヨミの夫たちに手伝ってもらって、1本1本墓標を立て変えて行った。真珠会社の社員も協力してくれた。根気がいる仕事だった。墓の修理を初めて4年経った1985年、日本にいた茂木夫妻にトミーから突然電話がかかってきた。受話器からは、「200本がきれいに立ちました。おかげさまで墓地は見違えるように立派になりました。はよう、見に来てください」と、トミーの喜びにみちた声が聞こえて来た。茂木夫妻も「それは良かった。やっとできたんですね。お疲れさまでした。これも皆トミーさんの熱意のおかげですよ」と、トミーと喜びを分かち合った。
その翌年、茂木夫婦は、トミーを一緒に日本に連れて帰り、日本でゆっくり休んでもらおうと計画を立て、庭にトミーのために小さな家を建てた。そして、いつものようにトミーに食べさせるために日本の食べ物をたくさん持って、木曜島を訪れた。その時、トミーが働いていた角田真珠会社の専務、津村氏の母堂の書いた経文を、シルクスクリーンという手法で刷り上げたものをプレゼントに持って行った。しかし港に迎えに出てくれたトミーを見て、夫妻は衝撃を受けた。トミーは2年前に会った時のような元気はなく、歩くのもおぼつかない感じで、家族の運転する車で、墓地に連れて行ってもらわなくてはいけなかった。墓標を新しくやり替えたいと言う念願がかなって、力尽きたように思えた。
車を降りて、慰霊塔の後ろに立つ200本の白い墓標を見た時、トミーの努力の結晶だと思うと、茂木夫妻には胸に迫るものがあった。墓参りをした後は、持って来た経文を墓地の一部に埋め、皆で死者の冥福を祈った。トミーの体力が余りにも衰えているのに衝撃を受けた夫妻は、日本に一緒に行きましょうと口から出かけた誘いの言葉を引っ込めた。
夫妻が帰る時、実際トミー自身これが最後のお別れだと思った。立っているのさえつらい。トミーは思わず夫妻の手を握って、お別れの言葉を言おうと思ったが、言葉は何も出てこず、大粒の涙が頬を伝って流れた。そして、名残を惜しむ夫妻の背中を黙っておして、出発する船に乗せた。
その年の12月半ばのことだった。チヨミがいつものようにジョギングに出かける前に、トミーに声をかけたら、「ああ、いっておいで」と声がした。そしてチヨミはそのままジョギングに出かけた。帰って来て、いつものようにバルコニーに座って海を眺めているトミーに「ただいま」と、声をかけた。しかし、返事がない。不思議に思って、チヨミが「パパ、どうしたの」と声をかけ、顔を見ると、顔は青くなっていた。驚いたチヨミがトミーの腕を取って脈を診ると、すでにこと切れていた。享年79歳だった。
トミーの死の衝撃は、島の人は勿論のこと、トミーとかかわりのあった日本にいる人たちにも、伝わっていった。トミーの葬式には島中の人が参列し、盛大に行われた。その時参列者の間で、トミーの功績を称え、皆で寄付をして、彼の住んでいた家の前に胸像を建てる計画が持ち上がった。そしてトミーの死後1年経った1987年に、その胸像は完成した。その銅像を見ると、今でもトミーが丘の上から、木曜島の海を眺めているように思える。
 トミーのお墓保存活動は他の人によって受け継がれているようで、遠山嘉博氏によると、現在、木曜島の共同墓地には約700基の日本人墓石が立っているそうである。



参考文献
「オーストラリア・木曜島に渡った日本人の足跡を追う―藤井富太郎氏の生涯から考える」 
伊井義人、青木麻衣子 (藤女子大学貴陽第49号第Ⅱブ:1-9,平成24年
「トーレスの海に生きた日々」 (オーストラリアの日本人:一世紀をこえる日本人の足跡)1998年18-19ページ 城谷勇 
「日本人潜水夫の採貝技術」(オーストラリアの日本人:一世紀をこえる日本人の足跡)1998年20-21ページ 城谷勇
「最後の潜水夫 藤井富太郎さんと日本墓地」(オーストラリアの日本人:一世紀をこえる日本人の足跡)1998年 茂木 ふみか 22-23ページ
「捕らわれの記」  城谷勇 (オーストラリアの日本人:一世紀をこえる日本人の足跡)1998年66-67ページ
“Tomitaro Fujii: Pearl Diver of the Torres Strait” by Linda Miley,  Keeaira Press: Published in 2013 
「オーストラリア日系人強制収容所の記録」  永田由利子  2002年
「カウラの突撃ラッパ」  中野不二夫 1991年
「語られ始めた日本人抑留体験―オーストラリアとニューカレドニアを比較してー」
 永田由利子

ウエブ検索
The pearling industry in Australia: https://tanken.com/moku2.html   
「オーストラリア木曜島へ行く:真珠貝採取の日本人」
jstor.org/stable/pdf/j.ctt1q1crmh.8.pdf   
 “The Japanese in the Australian Pearling Industry “ by D.C.S. Sissons   jsto.org/stable/pdf/j.ctt1.1crmh.8.pdf
「南半球便り(その86):遥かなる木曜島」山上信吾、在オーストラリア日本大使館ウエブサイト」
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/102/102050904.pdf
「第二次大戦前のオーストラリアへの日本人移民の諸問題」 遠山嘉博

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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