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飛鳥の麗人(1)

時は、671年12月3日。近江京の宮殿の中で、額田王は、白い喪服に身を包んで、天智天皇の死を悼んでいた。天智天皇はしばらく病を患われていて、余命いくばくもないと聞いていたので、崩御されたと聞いた時、とうとうその時が来たかという思いだった。すぐに天皇のおそばに駆けつけたが、正妃の倭姫様を始め、お子をなした数々のお后がいらっしゃり、天智天皇との間に子供もいない額田王は、部屋の隅に、ひっそりと身をおいた。あちらこちらでお后や天皇の御子達のすすり泣きがもれ聞こえた。そんな中で、額田王は、天智天皇に愛された日々のことを懐かしく思い出していた。天智天皇がまだ中大兄皇子と呼ばれていた頃、皇子の母君の斉明天皇のお供をして、隣国の新羅の国から攻撃を受けていた朝鮮半島にある百済の国に援軍を出すために、筑紫の国(九州)に向かう途中、熟田津(愛媛県松山)で、皇子に請われて詠んだ歌のことを思い出した。

「熟田津に船乗りせむと月待てば、潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」

(熟田津で船に乗ろうと月の出を待っていますと、月が出てきたばかりでなく潮も満ちてきて、船出に具合がよくなりました。さあ、今こそ漕ぎ出しましょう)

この歌を歌ったとき、中大兄皇子から絶賛され、誇らしく胸が高鳴ったことを思い出した。あの頃が一番天皇に愛されていたような気がする。

もの言わぬ天皇の側に、天皇の弟で、額田王にとっては前夫となる大海人皇子との間にできた娘の十市皇女の姿も見えた。天智天皇の跡継ぎとして期待されている天皇の長子、大友皇子の后となった十市皇女は、天皇の亡骸のすぐそばにいる大友の皇子のすぐそばで悲壮な顔をして控えていた。その傍らには、十市皇女と大友皇子との間にできた葛野王(かどのおう)の小さな姿も見えた。十市皇女に声をかけることもためらわれて、額田王は、ひっそりと一人、宮殿をあとにして、自分の館に戻って行った。

額田王が自分の館に帰り、喪にふしているとき、幼友達の鏡女王が訪れてきた。鏡女王とは、何年も会っていない。鏡女王も一時は天智天皇に愛されたが、天皇に飽きられて、中臣鎌足に無理やり嫁がされてしまった。鏡女王も、額田王と同じくらい、天智天皇の崩御には衝撃を受けているであろうが、立場上、天智天皇のお側に駆けつけることはできない身であった。

はたして、額田王が鏡女王と差し向かいに座ると、鏡女王の目は腫れあがっていた。

「額田王様、天智天皇の亡骸を見ましたか?」

「ええ。でも天皇のお側にはたくさんのお后や御子がいらっしゃり、天皇のお顔を見ることはできませんでした。鏡女王様も、さどかしお心が悼むことでしょう」

「ええ。あなたの忠告も聞かず、天皇のおそばにいたいと、飛鳥から中大兄皇子が住んでいらした難波に移ってしまったのは、大きな誤りでした。時々お会いしていたからこそ、天皇も私のことを大事に思ってくださったのでしょう。でも難波に移ってから、いつでも天皇にお会いできると思っていたのに、天皇の周りには数多くの女人がいるのに我慢ができなくて、嫉妬に苦しむようになりました。そのため天皇をなじったりしたので、天皇にうとまれるようになってしまったと、悔やんでおります」

「でも、鎌足殿とは、仲むつまじく暮らされたと聞いております。鎌足殿が病気に伏せられたとき、快癒祈願のために興福寺を建てられたではありませんか」

「ええ。鎌足は私を天智天皇からの贈り物だと、とても大切にしてくれたのは、本当です。天皇に対する燃えるような想いはもてませんでしたが、夫として申し分のない方でした。興福寺を建てたものの、夫の快癒はならなかったのが、残念です。夫も逝き、天皇も崩御され、むなしい思いでいっぱいです」

「そういえば、『君待つと、わが恋ひをれば わが屋戸のすだれうごかし 秋の風吹く』(あなたが来るのを恋焦がれて待っていると、秋の風がすだれを動かして吹いていく)と、私が天智天皇への想いを歌ったとき、あなたは『風をだに 恋ふるは羨し 風をだに来むとしまたば 何か嘆かむ』(風の音にさえ恋を感じ胸をときめかすあなたがうらやましい、訪れてくる人さえいない今の私は風だけでも来ないかと待つ心境だ)と歌ったことがありましたね。あの頃は、二人とも天智天皇のお気持ちを自分のほうに向けてもらうために、競い合っていましたね」

「恋敵でしたね、私達」

二人は顔を見合わせて、微笑みあった。

「額田王様は、大海人皇子とは会われることはないのですか?」

「あなたもお聞き及びのことと思いますが、天皇は最初弟君である大海人皇子に位を譲るおつもりでしたが、聡明な大友皇子が成長されると大友皇子に対する期待が大きくなり、お気持ちが変わられたようです。ですから、大海人皇子は天智天皇との衝突を避けて、身を引いて吉野山に隠遁されてしまったので、お会いすることもありません」

「そうですか。時折、あなたは大海人皇子と天智天皇と、どちらをより深く愛してたのか、考えることがあります」

額田王は、鏡女王の好奇心溢れる目が、自分に注がれているのを感じ、

「それは…」と一息置いて、首を傾けて考えた。

しばらくたって、やっと額田王は口を開いた。

「自分でもよく分かりません。大海人皇子に愛されていたときは、大海人皇子以外の人を好きになるなんて、思いませんでした。でも、天智天皇から言い寄られたとき、大海人皇子は天智天皇の皇女4人も后としてもらい、その中でも特に大田皇女に心を移され、私には見向きもされなくなってさびしい思いをしていたせいか、天皇に心惹かれてしまいました。でも、今から思えば、天皇は、私が大海人皇子の最初の后であったこと、そして私が宮廷歌人として名を上げていたことに対して、興味をそそられただけだったのかもしれません。王者として何でもほしいものを手にしなければ気のすまない方でしたもの。もっともそんな方であったからこそ、私も天智天皇に心を奪われたのだと思います」

「あなたが名だたる宮廷歌人なことは確かですが、天皇は、ほかの女人には見られないあなたの知的な美しさに魅了されたのだと思います」

額田王は、かつての恋敵だった鏡女王から美しいと言われて、少し心をくすぐられたような思いがした。

鏡女王が去ったあと、額田王は、鏡女王と自分の身の上を考えて、物思いにふけった。自分の館で愛する人を待たなければいけない女の身が、いまさらながらせつなく物悲しかった。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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