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ある雨の夜に(1)

それは7月の寒い雨が降る夜のことだった。メルボルンの町は午前1時ともなると、町中にあるパブ以外は閑散としてしている。シーンと静まったメルボルン郊外の雨に濡れた車道を走りながら、ウーバーの運転手、柳田幸太郎は、もう今晩は家に帰った方が良いかもしれないと思っていると、本部から無線が入った。
「スプリングベール、プリンセスハイウェー600番地から乗車希望のお客さんがあります。近くにいる車両で、行ける車ありますか?」
 幸太郎は、ダンデノンにある自宅に帰るため、プリンセスハイウェーをスプリングベールに向かって走っているところだった。ここからそんなに遠くないと思ったので仕事を受けることにした。
「柳田幸太郎。今からプリンセスハイウェー600番に向かいます」と応答すると、「それではよろしく」と無線を通して、本部の男性の声が聞こえた。本部から乗客の行先が送られてきた。見ると、ベリックとなっていた。ベリックなら自宅にも近くなる。これは運が良いと思いながら、客の待っている場所に向かった。今頃客も自分の携帯を見ながら、登録番号が1GN7VCで白色のプリウスの幸太郎の車が、あと7分で来ると言う情報を得ていることだろう。幸太郎の車がどこを走っているかまでも、客の携帯に映し出されるからだ。ウーバーの運転手は普通のタクシーの運転手に比べて、客に襲われる危険が少ないという安心感がある。何しろ客の住所、携帯番号、クレジットカードの番号など、客の素性を本部で把握しているからだ。それに幸太郎達ウーバーの運転手は客の評価をすることもできる。だから素行の悪い客を拾う必要はない。もっとも客も運転手の評価をし、その評価が5点満点の3.5以下になると、くびを言い渡されるので、運転手の方もサービスに気を配る必要がある。気さくな幸太郎は今のところ4.6と言う高い評価をもらっていて、くびになるおそれはない。
 車のヘッドライトに、傘を持った若い女が浮かんできた。女が立っていたのは、ボタニカル墓地の門の前だった。女の傍に車を停め、女が車に乗るのを待って、幸太郎は車を発車させた。女は顔が青白く髪が長くて雨に濡れているのが、バックミラーで見てとれた。黒い髪で小柄なのでアジア人のようだった。年は10代終わりから20代初めと言う所だろうか。
「お客さん、こんな夜遅く、どこかにお出かけだったんですか?」と客に話しかけたが、客はうつむいたまま何も言わない。何かショックなことがあって、何も言いたくないのかもしれないと幸太郎は思い直した。しかし黙ってばかりいるのも気づまりなので、自分のことを話すことにした。そうすれば客は返事をする必要もないし、聞きたくなければ聞かなくても構わないのだから。
「私は日本人で、5年前にオーストラリアに来たんです。いやあ、メルボルンはいいところですねえ。地震もないし台風も来ない。それに気候だって、暑すぎもせず、寒すぎもせず。もっとも天気が変わりやすいので文句を言う人もいますがね、それは贅沢って言うもんですよ。日本のように夏は毎日蒸し暑くて、暑さから逃れられないと言うのと違って、たとえ40度になる日があっても、1,2日でクールチェンジが来て涼しくなりますからね。救われますよ」
客の行先のベリックまで幸太郎はしゃべりづめだった。黙っていると気づまりで仕方がなかったからだ。
 やっと目的地に着いた時は、幸太郎はほっとした。
「お客さん、つきましたよ」と言って、後ろの席を見ると誰もいない。変だなと思ったが、音もさせずに降りたようだった。オーストラリアでは日本のタクシーと違って、ドアの開閉は客がする。それにしてもドアを閉める音が聞こえなかった。女を拾ったのが、墓地だったことを思い出し、まさか幽霊じゃないだろうなと、幸太郎は薄気味悪くなった。支払いは、自動的に客のクレジットカードから引き落とされることになっているので、幸太郎は客とお金の受け渡しをする必要はない。客が下りたのなら、それ以上、そこに停まっている必要はない。急いで車を出して、一路家に向かった。その間、あの客のことばかり考えた。深夜に女一人墓地で車を拾うなんてことが、そもそも尋常ではない。何も言わずすっといなくなってしまったのは、ますますおかしい。あの客、足はあったかなあと考えても暗くて気づかなかった。


著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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