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EMR(5)

「どなたですか?」と聞くと、
「このマンションの前の住人のハリー・アンダーソンです」と言う。
 隣のシェリルの言った言葉を思い出した。
「大切な物だったら、そのうちハリーが取りにくるわよ」
 慌ててドアを開けると、茶色の髪はぼうぼうで無精ひげを生やし、くしゃくしゃのTシャツとジーパン姿の三十代の白人の男が立っていた。学者らしいとは知っていたが、社会人とは思えないような身なりだった。だから、理沙が少し警戒する気持ちになったのも、無理はない。
 ハリーは、理沙のじろじろと警戒するような視線を気にする風もなく、
「忘れ物をしたんですが、小さい耳栓のような物はありませんでしたか?」と聞く。
 やはり、前の住人のようである。それでないと、あの耳栓もどきがこのマンションにあることを知っているはずがない。
「ありましたよ」と言った理沙は、ハリーから耳栓もどきの正体を聞きたいという好奇心が頭をもたげてきて、つい言ってしまった。
「立ち話もなんですから、どうぞ中に入ってください」とハリーを居間に招きいれたのだ。
 知らない男は自分の部屋には入れないという一人暮らしの女の鉄則を破ってしまった。ハリーは「それじゃあ、お邪魔するかな」と言って、そのまま部屋に入ろうとするので、理沙は慌ててしまった。
「あ、ちょっと待ってください。靴を脱いでスリッパにはきかえてくださいませんか」と言って、急いでスリッパを出して、ハリーの前においた。苦笑いしながら、ハリーが靴を脱ぐと、ソックスの親指のところに大きな穴が空いていて、親指が見えた。しかし、ハリーは全然気にする風も無く、スリッパに履き替えて部屋に入り、きょろきょろ見回した。
「住人が変わると、随分部屋も違って見えるもんだなあ」と感心したように言う。
「以前は、どんな部屋だったんですか?」と理沙が聞くと、苦笑いしながら、
「僕は掃除が苦手だったからね。部屋の中は本や紙で散らかっていたよ」と答えた。
居間のソファーにハリーを座らせ、理沙は耳栓もどきを机の引き出しから取り出し、ソファーの前のテーブルの上に置いて聞いた。
「これ、一体何なのですか?」
「何だと思います?」
 ハリーはからかうように言った。
「その耳栓をつけると、他人の心の声が聞こえるみたいですね」
「ほう。実験してみたのですか?」
 理沙は、黙ってうなずいた。
「だったら、分かったと思いますが、これは他人の心が聞ける耳栓なんですよ」
「そんなことがどうしてできるんですか?」
「うーん、素人に説明するのは、難しいなあ。最近医療器具で、心で思うだけで動かせる人工の指ができたんですが、聞いたことがありますか?」
「そんなことが、できるんですか?」
 理沙にはそんなことは初耳だった。
「ええ、できるんですよ。想念って言うのは、脳の中の細胞がシナプスを使って伝達されるのですが、その時起こる電流を調べることができるのはご存知ですよね」
「脳波のことですか?」
「そうそう。脳波で一番知られているのは、普通の活動をしている時出るアルファー波、夢を見る時にでるシーター波、深い眠りの時のデルタ波なんかですが、今では、脳波をもっと詳細に観察することによって、想念も分かるようになってきたんですよ。脳波と想念の関係の研究がすすんできて、人工的に作られた肢体を、思うだけで動かせることも可能になってきたのです」
「ふーん。ちょっと難しいお話ですが、分かるような気がします」
「僕の恩師のマクミラン教授は、脳波と想念の関係を詳しく調査して、想念を脳波の微妙な動きによって解明することに成功したんですよ。その先生が突然亡くなられて、僕はその先生の遺志を引き継いで、先生が残されたデータを基にして、想念を伝達する機械を作る研究に打ち込んでいたのですが、やっとその試作品ができたわけです。この機械は言葉を介さないで、想念を伝達することができるので、言葉の壁も乗り切ることに成功した画期的なものなんですよ」
「はあ」
 とうとうと話し始めたハリーは、本当に研究に打ち込んでいるのがうかがえた。自分の研究のことを話しているハリーの目はキラキラ輝いている。初めて見たときの、だらしない格好をした冴えない男と言う印象が吹っ飛んでしまった。
 しかし、理沙の気の抜けたような返事を聞いて、理沙に自分の研究を話しても理解されそうもないことに気づいたようで、ハリーは一応説明がすむと黙ってしまった。
 今度は理沙が聞く番だった。
「失礼ですが、何のために作られたのですか」
 実際理沙には、耳栓もどきがどんなことに役に立つのか、理解しがたかった。
 自分の研究にけちをつけられたと思ったのか、ハリーはムッとした顔をして、
「色々役に立ちますよ。たとえば身体が動かなくなった人の世話をするとき、これで相手の考えていることが分かるので、世話がしやすくなります。時々手術をするために麻酔をかけられ、身体は麻痺して動かないのに意識だけあって、手術の間中、激痛に耐えなければいけなかった患者の話を聞きますが、これを使えば、そんな恐ろしい思いをする人がいなくなりますよ。それに、犯罪者なんかも捕まえやすくなりますよ。嘘発見器のようなまどろこしいことをしなくても、直接容疑者の心を読めば、その容疑者が実際に犯罪にかかわっていたかどうか、分かりますからね」
「でも、個人情報の機密は守れないことになりますね」
「まあ、使いようによっては危険な道具になりますが、どんなものでも、使う人によって危険な物になるものは、実際世の中に溢れていますから、これだけを取り立てて問題にすることはないと思います」
「もう、たくさんこんなものを作られたのですか?」
「いえ、これだけです。これからいろんな人に使ってもらって、性能を実験していかなくてはいけない段階です」
「どんな実験をするんですか?」
「実際に使って、ちゃんと相手の心が読めるかどうかの実験です。そうだ。僕の実験に協力してくれませんか?」
「私がですか?」
 急に言われて、理沙は戸惑った。

著作権所有者:久保田満里子

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H   (2011-01-24T08:47:04)
え〜どうする理沙?!

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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