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3月11日-「忘れちゃいけない、それを確認するために」(後半)

ジャパニーズ・フォー・ピース(JfP)メンバー、山木健太郎さん

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2012年3月7日掲載

 

 


 

震災、津波、そして原発事故からちょうど1年の3月11日、地元NGOとともに集会『11 March: Day of Action to End Uranium Mining, Fukushima One Year One』を開催する日本人の平和グループ『ジャパニーズ・フォー・ピース(JfP)』で活動する、山木健太郎さんに話を聞くシリーズ。


後半では、その経歴と、今の彼に深い影響を与えた世界の活動家たち、そして3月11日の集会について、彼が思うことを紹介しよう。
(前半はこちらからどうぞ。)


■ドイツと日本


健太郎さんの「原風景」のひとつ。


それは壁が崩壊する前の東西ドイツだ。


「6歳から9歳まで両親といっしょに東ベルリンに住んでいました。
しょっちゅう東西を行き来していたんですけど、街の様子がまったく違うんですよ。東と西で。

走っている車も、着ている服も西のほうが断然かっこいい。
東は有害物質が空中をいっぱい飛んでいるかんじで(笑)、石炭もくもく、食べ物のブランドも一種類しかない。

子どもごころに不思議で、父親になんで? って聞いた。
理由を教えてもらったんですけど、何か納得いかなかった。

『大人って、複雑で、バカなんだなあ、壁作って、人を殺して』って。
滑稽で、矛盾だらけだ、と思った」

そう思いながらも、ドイツはエキサイティングな場所だったという。


9歳のとき、日本に戻ってきた。その半年後に、壁が崩れた。

1989年のひと夏に沸き起こった「ピープルズ・パワー」で、東と西をあれほどまでに厳然と隔てていた壁が、あっさり崩れた。

不思議なかんじだった、と健太郎さんは話す。

 

そして、帰ってくるのを楽しみにしていた日本での生活。

閉鎖的で「変な日本人」と仲間はずれにされる学校生活は、どんどんつまらなくなっていた。
モノばかりがあふれる社会、テレビの話ばかりするクラスメートたちにも、違和感を感じた。



「たえずドイツと日本を比べて、醒めている自分がいましたね。常に傍観者、というか。
それなりに友人はいたけど、どれほど本当に分かり合える人がいたかどうか。
フラストレーションの多い10代でした」。




■「縄文サンバ」とインドとボート

東京の大学で商学部に進学。
本当は文学部に進みたかったが、両親に「文学で食えるか」と言われた。


「商学って、『人にどうやってモノを売るか』の科学なんですよ。
それで、日本社会の理屈や仕組みがよく分かった。
で、資本主義が嫌になりました(笑)
消費者として生きることを強いられる現代に生まれて、間違った時代に生まれちゃったな、とさえ思いました」


どうしたら、この物質主義、資本主義に対向できるか?
商学部とは関係のない社会学のゼミを取ったり、宗教や文化人類学について学んだりした。


そして、もやもやしている自分と波長の合った大学の友人たち10人で

『縄文サンバ』

なるストリート・パフォーマンスをやったりした。

「原始に返って、楽しくドンチャンやろう、っていうコンセプトで。僕はディジュリドゥを吹いてました。
あらゆるところで演奏して、いろんな人たちに声をかけられましたよ。なんか疲れた人たちが多かったですね。」


大学で仲のよかった教授の紹介で、TBS局のプロデューサーかつ「足の裏で平和を考える会」というグループを主催する人物の誘いを受け、911後のイラク戦争反対デモでライブ演奏をしたこともあった。


「ただ、なんかデモって僕らとは合わないな、と。
団体が旗持って『エイエイオー!』みたいな。暗いし、ダサいなって(笑)
もっと楽しくすれば、もっと人がくるんじゃない? と思ったりしていました」。


そんな大学時代。
クラブで遊んだりとそれなりに楽しい日々を過ごしながらも、楽しいだけなら後に何が残るんだろう、生きることの意味って何なのか、と考えつづけた。
卒業を迎えて「日本の世間にもかなり失望していた」健太郎さんは、就職をせずにバイトでお金を貯め、9ヶ月間インドを中心にアジアを巡る旅に出た。


ところが「人生の意味、生きる意味」が見つかるかと思っていた旅、
インドに行ったら開けるんじゃないかと思っていた旅で、よけいに混乱した。

日本を、外から批判してもどうにもならない。
逃げていた、と思った。
日本に帰国した。



帰った日本で出会ったのが、世界一周の船旅を通じて国際交流を促す日本のNGO『ピースボート』だ。

初めて乗った船旅で、これだ! と思った。
自分のような考えを持っている若者が集まって、こんなに大掛かりな楽しいことをしているんだ、と。

国際部スタッフとして働きながら、世界への視野がぐんと広まった。
それと同時に、戦争、圧政、虐殺などもっと深くて黒い世界の不条理、物質主義への嫌悪は高まった。

 


■闘う人たちとの出会い

「世界中の、いろんなところでいろんな人が闘っているんだな、と思います」。

ピースボートで、また個人で世界中を旅して出会った、さまざまなNGOのスタッフたち、活動家たち。

インドに行ったときに参加した『World Social Forum』という世界的な社会運動のフォーラム。
世界の経済界におけるエリートが集まり毎年スイスで開かれる『World Economic Forum』に対抗するものとしてブラジルで生まれた同イベントが、2004年、健太郎さんが滞在中のインドで開かれた。
 

「強烈なフォーラムでした(笑)

印象的だったのが、インドのケララ州の農民の人たち。
コーラの工場のせいで地下水が枯渇してしまって、農水が得られなくなった。
それで農民たちが、毎日工場をとりかこんで抗議して、ついに工場は撤退した。
どうやって達成できたか、どうやったら大企業の首根っこをつかめるか、っていう事例として、紹介されていましたね。


もう一つ。このフォーラムの会場に行く電車が、インド最大のスラムの中を通っていくんです。
掘っ立て小屋みたいなのが線路ぎわギリギリまで立っていて、中の生活丸見えで。

そんなスラムのど真ん中に、
ピカピカの車に乗って、きれいなかっこをしたお兄ちゃんがイェーイ、みたいなビルボードがどーん、と立ってるんですよ。
ものすごく象徴的な風景でした」

 


平和憲法ー「軍隊を持たない」ことを規定した憲法を持つ国の青年、ロベルト。コスタリカは


イラク戦争でコスタリカがアメリカの同盟になったことに対し違憲であるとして、政府を相手取って裁判へ持ち込み、なんと勝訴した。
そのために政府は、派兵を放棄しなければならなくなった。


また彼は、インフラの民営化に反対して一人で12日間もハンガーストライキをし、それによって世論が大きく動いて、結局民営化も取りやめになった。



もう一人の「強烈な友人」、セルビアのヴラディミール。

2000年、独裁的大統領のミロシェビッチを退陣に追い込んだことで世界的に有名な、青年運動『オトポール!』の幹部だ。

野外の音楽ライブ、黒字に拳を白く抜いた旗などで若者たちを大きな動きへと結びつけ、革命を成功に導いた。

他の東欧各国の革命運動にたいしても、

どうしたら人々の心をつかめるか、どうしたら人々がおもしろがって活動に参加するかについて指導するほどの、活動家だ。



■震災、原発、「変える力」

人の力が、大きなもの ー 社会、政治、大企業を変えることができる。

それを健太郎さんに証明した友人たち。

彼らはどうやって、「変える」ことができたんだと思う?

 

「彼らのやること、言うことが、何か、人の心に響いたからだと思う。

そしてそれに参加することが楽しく、おもしろいことであると、人々に思わせることができたからだと思うよ。

オトポール!が若い政治に無頓着な世代を惹きつけることができたのも、
いい音楽ライブをやって、かっこいいシンボルの旗のもとで、ってことが、しっかり心をつかんだんだ」

 


今、日本で若い世代が主導している脱原発運動は、政府や企業を「変える」力になると思う?


「多分、壁にぶつかる時がいつかくるんじゃないかな、とは思う。
国とか権力とか、大きなシステムに対して、個人がいかに非力かっていうことを痛感する時が。

そこから、今の勢いがしぼんでしまうか、それともあれこれ考えて、やり方を変えて、工夫して、もっと大きな動きにしていくことができるか。
勝負どころがくるだろうなと思ってる」。
 


百戦錬磨の活動家たちを目の当たりにしてきた健太郎さんの目は冷静だ。 
でも彼は、今回のメルボルンでの集会について、こうも話す。

 

「震災、津波、そして福島で起きたことは、絶対に忘れちゃいけない。

だから、今回のメルボルンの集会は、これですぐに政府や企業を変えるっていうよりも、『忘れちゃいけない』ってことを一人ひとりが確認するために、自分のために、来てほしい。

起きたことを、今起こっている事実を一人ひとりが受けとめて、それが生き方を変えることになるとも思うし、時間がかかることだけど、それが結局社会を変えていく力になると思うから。


集会に参加するからって、何か信条がなきゃいけないなんてことはない。

テーマは深刻だから言い方は悪いかもしれないけど、ちょっとしたお祭り気分で、楽しむために、遊びに来てもらったっていいと思うんだ」


 

「去年の3月11日に起きたことは、自分に取って大切なものは何なのか、考えさせてくれるきっかけにもなったと思う。

それをそれぞれしっかり考えて、極端を言えばその結果、原発に賛成でも反対でも、それはどっちでもいいと僕は思う。

そして原発とは関係ないけど、今、ここメルボルンになぜ、どんな目的できたのかを考えて、それを一生懸命やってほしい。

掘り下げて、追求して、何かを達成することで、自分が変わって行くことができると思うから」。


 

聞き手・文:田部井紀子


 


ジャパニーズ・フォー・ピース(JfP)ほか主催

東日本大震災・福島第一原発事故発生1周年・豪州ウラン採掘反対集会
『11 MARCH: Day of Action to End Uranium Mining, Fukushima One Year On』

日時:2012年3月11日(日)午後1時~
場所:メルボルン市内州立図書館前(Cnr. Swanston and La Trobe sts)

内容:和太鼓演奏、福島の市民団体『ハイロアクション 』さんからのオーストラリアへのメッセージ、そのほかのスピーチのあと、和太鼓のリズムを先頭にデモ行進します。

詳細:http://jfp.org.au/   もしくは www.11march.com (英語サイト)
GO豪メルボルン上のコラムはこちらから。
問い合わせ: info@jfp.org.au
 

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