小説版バイリンガル子育て 第21話 『ずっとひとりで待ってたんだよ』
更新日: 2010/08/28
英語の夢を見て、新太郎のバイリンガルとしての覚醒が始まったのか、この日を境に長い文章をしゃべるようになった。 翌日、僕が仕事から帰ると、晩御飯のときに彼女とケンカしたらしく、"I'm eating rice but I said I don't wanna eat and Mom got angry.(僕がご飯を食べていて、ご飯をいらないと言ったらママが怒ったの)"と助けを求めてきた。その数日後には、チェリーパイのおもちゃを胸に当てて、"This cherry pie is Julia's tittie.(このチェリーパイはユリアのおっぱいだ)"と言ってヘヘヘと笑った。一応ハッキリと断っておくが、この発想は僕が教えたものではない。それならDNAがそうさせているのかと言われれば、それは否定できないのもまた事実である。
更に数日後、水族館で買った魚の図鑑を一緒に読んでいたら、"If shark eat Daddy, Daddy will cry.(もしサメがダディを食べたら、ダディは泣いちゃうよね)"と初めて"IF"を使った。僕はサメに食われる前に、新太郎の目覚しい成長に涙ぐんでしまいそうだった。その後も図鑑を一緒に読んでいたら"Red sad fish."とある魚を指して言っているのだが、僕は"sad"が聞き取れなかった。"Sorry, I don't know what you're trying to say.(ごめん、何を言おうとしているかわからない)"と言うと、"Worried fish.(心配そうな魚)"と違う言い方で説明してくれた。これまでよりも確実に一皮向けていて、今までよりも深い会話ができるのがとても嬉しかった。僕は、新太郎との絆が一層強くなっていくのを感じていた。
ある朝、久しぶりの飲み会で今日は遅くなると新太郎に伝えると、"Please come back early and play with me.(早く帰ってきて僕と遊んでよ)"と言われた。僕は"I'll do my best.(最善を尽くす)"と言って家を出た。そして午前2時過ぎに家に戻った。当然家中真っ暗だ。僕はキッチンの電気を付けて、冷蔵庫から2リットルのお茶のペットボトルを出して勢いよくラッパ飲みをした。寝る前に1リットル以上の水ないしお茶を飲んで寝ればまず二日酔いにはならない。また彼女に「そこまでする必要があるほど飲むな」と言われるなと思いながらゴクゴクと食道にお茶を流し込む。確かに経済的にも効率的にもよくないと思う。でも愉快な仲間たちがいてそこに酒があったら飲んでしまうのは男の性ってやつだよな、そう思いながら楽しかった宴を振り返りつつキッチンからリビングに目を移した。ソファーの上で新太郎が寝ていた。
「マサ君が早く帰ってくるって言ったから待ってるって聞かずに、私が寝室に行ってもずっとひとりで待ってたんだよ」僕が帰ってきた音を聞いて、眠い目をこすりながら彼女が起きてきてそう言った。小さな体でひとりぼっちでママの言葉を押し切って、自分の意思で僕を待ち続けた新太郎。僕を待っている人が彼女以外にもう一人いるのだと、遅まきながら実感した春であった。(つづく)

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更新日: 2010/08/15
「ずっと英語教育をしていたけど、3歳くらいになって自我がでてきて、英語を話すことを拒否して話さなくなった」「3歳以降にそのまま英語を話し続ける子を見たことが無い」 etc...
僕が英語で子育てをしていると言うと、人生の先輩達は皆口を揃えてそう言った。「3歳の壁は大きいぞ」と。
新太郎は2歳8ヵ月になった。順調に英語力はアップしている。それからという意味で、"also"を使い、回りこむのを"go around this way"と言った。英語だけでなく、精神的にも成長が見られた。由莉杏がまだ小さいので、僕と新太郎は二人だけで、僕の実家のある浜松に泊まりで遊びに行った。ママのいない初めての遠出だったが、一度も泣くことなくいい子にしていた。叔父と叔母に連れて行ってもらった釣堀では、叔父と一緒に竿を持って釣りをして、"Black fish is fast but red and white fish is not fast so I caught only black fish(黒い魚は速いけど赤と白の魚は速くないから黒い魚だけ捕まえた)"と説明してくれた。紅白の魚は慎重でエサになかなか食いつかないのだが、黒いのはなにも警戒せずにエサに食いつくのでよく釣れた。それにしても随分長い文章をしゃべれるようになったものだ。英語はまったくわからない婆ちゃんも、「わたしゃちっともわからないけど、英語ができればこれからの時代はいいねえ」と目を細めていた。

新太郎は、2歳8ヵ月のくせに女心もよくご存知のようで、朝から僕が彼女とくだらないことでケンカして、そのことを新太郎と二人で朝の散歩中に話したら、"Buy flowers for Mamma(ママにお花を買えばいいよ)"とアドバイスをしてくれた。僕は生まれて初めて彼女に花を買って帰り、彼女はあまりに珍しいことが起こったのでケンカしているのを忘れてしまい仲直りができた。"See Daddy.(ほらねパパ)"と新太郎が自慢げに笑った。
色々な面で成長している新太郎だったが、ある日僕に突然日本語で話しかけてきた。「パパ、遊ぼうよぉ」と言うのだ。これまで僕に日本語を話しかけてきたことは一度も無かったので、驚いて一瞬どうしようか迷ったが、英語で"Why are you speaking Japanese?(なんで日本語で話してるの?)"と聞いた。新太郎は僕の英語にはなんの反応も見せずに日本語を話し続けている。結局、その日新太郎は一日中英語を話すことはなかった。
新太郎が寝た後で彼女と相談した。英語が不自由なく話せるようになるのは新太郎の将来に大きなプラスになるのは間違いないが、そのために新太郎を精神的に苦しめるのは良くないという結論を出した。翌日、英語を話せるようになるメリットと、僕たちの思いを伝えて、あとは新太郎の判断に任せることになった。
そして翌日、目が覚めて新太郎の言葉のことを思い出して少し緊張した面持でリビングに向かうと、"Good moroning!"と英語で新太郎が話しかけてきた。昨日のことが無かったかのように元気な新太郎の笑顔がそこにあった。僕は、新太郎になぜ昨日僕に日本語で話しかけたのかを聞いてみた。"Because I wanted(だって話したかったから)."新太郎はそう言って口を尖らせた。
「新太郎も知ってると思うけど、パパは日本人で、英語より日本語の方が本当は上手に話せる。でもパパは新太郎が生まれてからずっと英語で話しかけてきた。なぜかって言うと、英語は世界で一番多くの国で話されている言葉で、英語ができると色んな国の人たちと友達になれるんだ。パパにはイタリア人やスペイン人、オーストラリア人とか色んな国の友達がいるよね。もしパパが英語ができなかったら、何を言っているかわからないから友達になれなかったかも知れない。パパもママも新太郎には、世界中のみんなと仲良くなって欲しいんだ。だからこれからもパパは英語で話しかけるし、キミも英語で答えて欲しい。将来キミが 18歳とかになって、日本語で話したければ話せばいいけど、今は英語で話したいんだ」僕は思いのたけを素直に新太郎に伝えた。
この日以降も新太郎は時々僕に日本語で話しかけてきた。「そうだよねーパパ?」と聞いてきたりしたら、「アーソウデスネエ」とカタコトの外国人風に日本語で答えることもあれば、"Speak English please.(英語で話してよ)"と言うときもある。その都度新太郎の心に負担をかけないように英語を押し付けるのではなく、自然に英語を話すように促した。逆に僕からカタコトの日本語で、「スミマセンガ、シンタロサンデスカ?」などと話しかけたりすると、"You're such a joker Daddy.(パパは本当に面白いなあ)"と笑ってくれた。
新太郎が4歳を過ぎた今振り返ると、確かに自我がでてきて、英語を話す自分に対して疑問を持った時期だったと思う。でもわが家では、新太郎に英語を押し付ける事なく、楽しく遊ぶ中に英語を取り入れてきたし、英語を話せると世界中の人と友達になれるとかメリットを話すことによって、その時期を乗り越えることができた。あの時、新太郎にじっくりと話をせずに「とにかく英語を話せ」という態度を取っていたら、きっと今頃英語が嫌いになってしまっていただろう。
『3歳の壁』、それは子どもに英語を習得して欲しいという親心から、英語を一生懸命「教えて」しまい、子どもにプレッシャーを与えてしまった親たちと、なぜ英語子育てをしているのか、その理由が自分でもハッキリせずに、子どもに説明できなかった親たちがぶつかる壁なのかも知れない。
「英語が話せて世界中の人たちと友達になれたら楽しいぜ」僕はこれからも胸を張ってそう子どもたちに言い続けるつもりだ。(つづく)

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更新日: 2010/08/06
新太郎には、じいじが死んで星になったと伝えた。彼にとって身近な人の死は初めてのことなので、どこまでわかっているかわからないが、"Ji-Ji died and became a twinkle star"と何度も言った。
二ヵ月半の間、広島で僕がいない環境で過ごした新太郎だったが、週1回の英会話教室に加えて、毎日英語のDVDを自主的に観たり、英語をしゃべりながら一人遊びをしたりしていたので、英語力はまったく落ちなかった。それどころかアルファベットの大文字と数字の1から10を全部覚えていて驚いた。アルファベットは、ウレタンでできたアルファベットのパズルを、おばあちゃんに何度も「これ何?」と聞いて覚えたらしい。更に日本語でしゃべる時に語尾に「けん」と付けていた。広島弁も習得しそうな勢いである。
ゆっくりと正月を過ごした僕らは1月3日に東京へ戻った。中野のアパートに帰って荷物を置き、休みたいところを我慢してすぐにスーパーマーケットへと向かった。今夜はお客さんが来ることになっている。広島で新太郎が通った英会話教室の先生のキミコとその友達のステーシーだ。年末に広島に行った時に、お礼の挨拶をしに教室に行ってキミコに会った。キミコは、どうすれば日本にいながらにしてこんなに喋れるようになるのか教えて欲しいと、新太郎の英語を褒めてくれた。そして新太郎がとても人懐っこいので別れるのが寂しいと言った。それを聞いた僕が、「もし東京に来る時は是非遊びに来てください」と言ったら、「本当!お正月は東京に友達と行くことになってるの」と言うので、「じゃあうちで手巻き寿司パーティーでもしよう」となったのだ。こういう僕のフットワークの軽さは、子どもたちにも受け継いで欲しい。ハードなスケジュールで疲れるときもあるけど、それ以上に大切なモノが得られると思う。
キミコは日系アメリカ人だが、日本語は本当に簡単な言葉しかわからない。しかもほとんどが日本に来てから覚えたという。日本に来た理由は自分のルーツである国を見てみたかったから。日本で2年間子ども英会話の先生をしているが、新太郎は衝撃的だったと話してくれた。こんなに生き生きと英語を話す子には会ったことがなかったそうだ。ステーシーも他の教室で英語を子どもに教えているのだが、同じように新太郎の言葉に気持ちがこもっていることにとても驚いて、その要因を知りたがった。僕はこれまでにそんなことは考えたことが無かったので、即答できずにしばらく考えた。そして一つの仮説が出てきた。
"When you think you're teaching, children will stop learning.(あなたが教えていると意識したら、子どもは学ばなくなる)
僕にとって子どもを育てるのは初めてのことで、更にそれを英語でやっているので、毎回教えるというよりは、一緒に成長していこうという気持ちが強い。それが新太郎にとっては、僕が一緒に遊んでいるように感じて、英語を楽しく自然に吸収しているのではないかと思う、と僕は言った。キミコ達は「それはそうかも知れない。私達はどうしてもプラン通りに授業を終らせるのが最優先になってしまい、時として強引に進めざるおえないときがある」と言った。誤解の無いように言っておくが、キミコもステーシーも生徒たちが英語を話せるようになるように日々努力している熱心な先生だ。その二人にとっても限られた時間と決められた授業の流れの中では難しいということは、その辺りが英語教室の限界であるように思う。日本の子どもたちが生き生きと英語を話せるようになる為には、家庭で何かしらしないと難しいと考えるようになったのはこの頃のことだ。
僕がそんなことを考えている間、新太郎はキミコとステーシーと、彼女が構えるカメラの前で楽しそうにおどけている。その表情を見て、これまでしてきた子育ては間違ってなかったと確信した。(つづく)


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小説版バイリンガル子育て 第18話 『運命という名の船に乗って 後編』
更新日: 2010/07/22
親父が危篤状態に陥ったと、叔母から電話があったのは12月26日の早朝だった。
前日のクリスマスの夜、僕は草サッカーのチームメイト二人と居酒屋で飲んでいた。1999年に僕が中学の同級生と作った草サッカーチームで、ほとんどのメンバーをインターネット上で募集して集めた年齢も職業もバラバラのチームだ。そこから始めてもう10年、今ではすっかり親友になった。気の合う仲間とのお酒は楽しい。浴びるほど飲んで家に帰ったのは午前4時前だったと思う。
「死んだら連絡して」そう言って僕は電話を切った。そこから再び眠りにつくまでの間、数秒だったのか数分だったのかわからないが、今でも覚えているのは、酒に呑まれてさんざん人に迷惑をかけ死んでいく男の息子が泥酔していて親父の死に目に会えなかったというのは、皮肉で面白いと思ったこと、病気の体に鞭打って一生懸命僕のために働いてくれたお母さんの死に目に会えなかったのに、そんなお母さんに辛い思いをさせていた親父が死に際に息子に来てもらえるのは不公平だと思ったこと、半年ほど前から何を言っても無気力な返事しか返ってこなくて、その時点で「親父はもう死んでいるんだ」と彼女に話して泣いたことを思い出し、その時に別れは終っていると思ったこと、そして、親の死に目に会えたかもしれないのに、会わない選択をした僕のことを考えている間に眠りに落ちた。
数時間後、叔母から親父が死んだという連絡があった。僕は店を開けて一通りの仕事をして、午後6時に店を閉めて親父の所へ向かった。とうとう本当に死んでしまったという気持ちと、やっと死んでくれたという気持ちが頭をぐるぐる回っていた。
僕がまだ赤ん坊の頃、僕の家では親父が毎晩のように友達を呼んでマージャンをしていた。親父たちがマージャンをしている隣に、コタツをひっくり返して、そこにシーツを巻きつけてハンモックのようなものを作り、赤ん坊の僕が置かれていた。タバコの煙が途切れることのないその部屋で僕は育てられた。僕が喘息にならなかったのは奇跡に近いと思っている。そんな環境で育ったので、幼稚園の時にはマージャンを覚えていた。そして中学の時に友達がマージャンに興味を持ち出し、付き合いでやったりしたが全く面白いとは思わなかった。
僕が幼稚園児のころには、夕食中によくお皿が宙を舞った。台所にいる母に向かって、酔っ払った親父が「こんな不味いもの食えるか」と言って皿を投げつけるのだ。僕は母の前に立ち、「やめろーっ」と両手を広げて立っていた。
僕が小学校4年生の時には、泥酔して家の階段から転げ落ちて玄関の戸にぶつかり、ガラスが割れて血だらけになっていた。病院に行けと言う母に「今日は休みだから嫌だ」と言い残し、親父はオートレースに行った。翌日には仕事だったので休んで病院に行った。僕が学校から帰ると、親父が全身を固定させられて寝ていた。首の骨が折れていて、あと少しで死んでいたそうだ。
こんな最低な父親だったのだが、母は「お父さんを嫌いにならないでね」といつも言っていた。
僕がオーストラリアに留学してすぐに母が亡くなった。これで親父との縁も切れると思ったのだが、「お父さんを嫌いにならないでね」という母の言葉が引っかかる。なぜ母はそんなことを言ったのだろうか。その頃、親父の酒癖は昔よりは多少マシになり、暴れたりはしなくなっていた。僕は親父のことを好きになろうと努力をすることにした。
オーストラリアから帰るたびに一緒に酒を飲んだりした。いきつけの寿司屋やクラブに僕を連れて行き、僕を自慢する親父はとても嬉しそうだった。こうして一緒に飲むようになると、親父の良さもわかるようになってきた。親父はよく気が利くし、根本的には優しい人だった。
今にして思えば、母があそこまでされても「お父さんを嫌いにならないでね」と言い続けてきたのは、きっと僕に親を恨むことをさせたくなかったのと、親父にチャンスをあげたかったのだと思う。親父は晩年、僕と二人で酒を飲むと、時折「全部あいつのおかげだ」と母に感謝をしていた。僕がグレなかったのも、親父と最後はいい関係になれたのも全部お母さんのおかげだと思う。
数年前に親父が血を吐いて救急車で病院に運ばれた。なんとか一命は取り留めたが、僕の顔を見てもヘラヘラ笑うだけの赤ん坊のようになってしまった。当然自分で食べることもトイレもできない。医者はもう元には戻らないのでと、介護施設を紹介してくれた。僕は納得が行かなかったので、自分でなんとかしようと毎日親父のところに見舞いに行って、僕が赤ん坊の頃からの写真を少しずつ見せて「これ覚えてる?お父さんとお母さんが僕を動物園に連れて行ってくれた写真だよ」などと説明をした。赤ちゃんになってしまったのなら、赤ちゃんからやり直せば記憶が戻ると思ったのだ。親父は「アー、ウー」と言いながら写真を見ていた。
それから5日くらい経ったある日、また僕が見舞いに行くと、親父はベッドの上で体を起こしていた。目が合った瞬間にこれまでの目じゃないと思った。「おお、正彦」親父の記憶は奇跡的に戻ったのだ。
それからは毎年1回くらい血を吐いて入院というのが繰り返された。親父の場合、酒のせいで肝硬変になり、本来肝臓に流れるべき血流が食道の静脈に流れることにより瘤状の膨らみができて、それが破裂して出血していた。毎回呼ばれる度に「覚悟はしておいてください」と医者に言われ、その度にそれなりの覚悟を決めるものの、幸か不幸かなんとか一命を取り留め、挙句病院を脱走して家に戻ってきたりするのだ。
親父の体のことを心配している僕の精神状態の方が先に変になりそうだった。実際、寿命は何年かは縮まったと思う。
僕が斎場に着くと、既に叔父、叔母、祖母が来ていた。生前の親父の希望通りに、お通夜も葬式もせずに火葬だけすることにした。入院してからの親父は酒が抜けて、体は弱っていたけど、思考はできたようだった。叔母が看護婦さんから聞いた話では、死ぬまでの最後の数日間は毎日穏やかな顔で、新太郎と由莉杏の写真を見ながら、微笑んでいたのだと言う。その時僕は、彼女が親父に手紙を書いてくれていたことを知った。由莉杏という名前を付けてくれてありがとうという手紙と、新太郎が由莉杏を抱っこしている写真、新太郎が書いた家族の絵を送ってくれていたようだ。彼女が送ってくれた手紙と写真のおかげで親父は穏やかに最期を迎えられたと思う。

その夜は、徹夜で最期の酒を親父と飲んで、翌日火葬場に行った。親父の体が燃やされている間、外に出てみると富士山が綺麗に見えた。雲ひとつ無い青空の下、日本一の富士山のふもとで煙になった親父。新太郎と由莉杏、二人の孫に名前を付けるのが親父の生まれた理由だったのかも知れない。天に昇る途中でこっちを見て、「もう十分だ。これからはお前の家族のことだけ考えろよ」親父がそう言っている気がした。(つづく)

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小説版バイリンガル子育て 第17話 『運命という名の船に乗って 前編』
更新日: 2010/07/15
運命というものが本当にあるのだろうか?今の僕ならあると言うだろう。
今僕はバスに乗っている。バスは広島駅から彼女の実家のある横川へと向かっている。第二子出産のために、彼女が新太郎を連れて実家のある広島へと移動してから27日が経った。仕事の都合上、生まれたらすぐ店を閉めて会いに行く訳にはいかなかったので、予め11月19日から3日間、広島に行くことを決めていた。
『生まれそうなので病院に行ってきます。気をつけて来てね。電話に出れないからお母さんに電話してね』
広島へ向かう新幹線の中でメールをもらった。予定日は11月27日だったので、この展開は予想していなかった。もし僕がいない時に生まれたとしたら、新太郎は初めて両親がいない数日間を過ごすことになっていた。それが新太郎にどんな影響を与えるのかはわからないが、自分が蚊帳の外にいるような孤独を感じていたと思う。
お母さんが教えてくれたバス停で降りると、ちょうどお母さんと新太郎が歩いてくるのが見えた。「ダディー!」新太郎が僕を見つけて走り出した。僕も走り出す。そして新太郎を抱きしめて抱えあげた。「ダディ、ダディ、ダディ、ダディーッ!」新太郎が連呼するダディが心地よい。十代の頃、好きな女の子に自分の気持ちをどう伝えようかと悩んでいた日々が如何に不毛だったのかがよくわかった。両思いであれば、名前を呼ぶだけでこんなにも気持ちがいいのだ。"Shintaro, I've been missing you sooooo much!(新太郎、すごーーーく会いたかったよ)"
それから数時間後、僕と新太郎に新しい家族ができた。女の子だった。知らせを受けてお母さんとタクシーで病院へと向かった。タクシーの中で新太郎に妹ができたから、これからはお兄ちゃんになるのだと説明をした。新太郎は"OK."と言って頷いていた。
病室に入ると、まず彼女の顔を見た。新しい命を無事に誕生させたその顔は、少し疲れていたけど輝いていた。彼女は新太郎を気遣って、「しんくん、会いたかったよ」と抱きしめながら新しい家族を紹介した。「しんくんの妹だよ。ちっちゃいでしょ」新太郎が生まれた時とそっくりな顔をした赤ちゃんが目を開けていた。

「もう帰ろう」それが新太郎の第一声だった。自分と血の繋がった命が突然目の前に現れたのだ。大人の僕でさえ上手に受け入れられないのだから無理もない。新太郎がしきりに帰りたがるので、僕たちはすぐに病室を出て彼女の実家へと戻ることにした。
彼女の実家に戻ったあとは、新太郎の心をかき乱すのも得策じゃないと思ったので、生まれてきた赤ちゃんの話題は出さずに、これまで通り普通に会話をした。新太郎が生まれてから初めて約1ヵ月間離れていたので、彼の英語力がどうなっているのか心配していたが、むしろ伸びていて"It's snowy.(雪が降っています)"など、英会話教室で覚えた新しい表現も使っていて驚いた。お母さんに聞いてみると、僕がいなくても、英語のDVDを観たり、英語で独り遊びをしていたようだ。例えば半年間僕がいなければ違った結果になったとは思うが、自ら英語に触れる習慣になっていれば、1,2ヵ月なら英語力を落とさずに自力で維持できるということだろう。
翌日、今度は彼女のお父さんも一緒に病院へ行った。新太郎の反応が心配だったが、一晩で覚悟を決めたのか、赤ちゃんが眠るベッドに自ら近寄って小さな妹を見つめてこう言った。「しんくん、お姉ちゃんになる!」いきなりのカミングアウトに僕たちは驚いたが、新太郎は赤ちゃんにとても優しくて、僕が東京に戻って彼女の実家に赤ちゃんがやってきてからも、赤ちゃんが泣いていると、「あっ、あの声は?赤ちゃんが泣いてる!」と小芝居をして様子を見に行ったり、すっかりいいお兄ちゃんになっているようだ、いやお姉ちゃんなのか?

赤ちゃんの名前は由莉杏(ユリア)にした。入院先の病院から僕の親父が命名した。親父は小学生の頃から飲み続けている酒に全身をやられていた。もう半年程前から完全に無気力になり、これまでは何かを相談すれば親身になって答えてくれていたが、最近は「ふーん」という態度を取って一切心が繋がっている気がしなくなっていた。布団から出ることも滅多になくなり、常に酒を飲んだまま寝たきりになっていた。家族会議の結果、アルコール依存の専門的な病院に無理やり入れることになり、人を雇って寝起きの親父を屈強な男が数人で囲み、車で病院まで運び込んだ。既にいつ何があってもおかしくない状態だった。
そんな状態で入院した親父だったが、しばらくすると酒が抜けてきて、僕の知っている親父に戻ったらしい。そこで、見舞いに来た叔母から女の子が生まれたのを聞いて、「ユリアにしろ」と伝言をした。それを聞いた僕は、生きながらにして死んだような状態だった親父が娘の名前を考えてくれたことに嬉しくなった反面、親父が好きなマンガ『北斗の拳』のヒロインであるユリアから取ったのが見え見えで、「絶対にユリアなんかにはしない」と思った。
僕と彼女は娘の名前を色々と考えて、メールで意見交換をして出てきた候補を姓名判断で占い続けた。200個以上試したが、どこかの項目がどうしても×(バツ)になってしまう。途方にくれた僕は、親父が言っていた『ユリア』という名前を思い出し、姓名判断をしてみると初めて×が無くなった。今度は色々な漢字を当てはめてみる。これまでとは全然違う良い結果が出ている。更に誕生花を調べてみると百合だった。
本当は新太郎のように、古風な日本風の名前を付けたかったのだが、ある意味でユリアという名前はもっと古風だった。英語だとJulia、スペイン語でJulietta、フランス語でJulienne、ロシア語ではUlianaなど世界の言葉で言いかえられている世界で最も歴史のある名前だったのだ。由莉杏と命名した後で知人からその話を聞いた時、頭の中でカチッとパズルがはまった音がした。僕は運命を感じざるを得なかった。そして運命は一層激しく展開していく。(つづく)
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更新日: 2010/07/06
これで7単語。今の新太郎が話せる最長の言葉だ。仕事から帰る時に電話をしたらバナナジュースをせがまれて、家に着いた途端にこう言われた。僕は新太郎と目を合わせたまま、後ろに回していた右手を前に持っていった。右手にはバナナジュースが握られている。"Yes!"新太郎がガッツポーズをして喜んだ。
僕は中学3年の一学期まで英語の成績が1だった。5段階で1が一番悪く、学年で一人か二人くらいしか付けられないのだが、僕の成績表にはいつも1が付いていた。僕は学年一英語の成績が悪かった。そこからオーストラリアに留学する決意をして付け焼刃で勉強して、卒業前には3を取ることができた。留学したての頃は7単語繋げるなんてできなかった。多分そのレベルになるまでに半年はかかったと思う。それを若干2歳4ヵ月で話すなんて、新太郎は本当にバイリンガルになれるんじゃないか。ちょうどこの時期は、自分の英語子育てのやり方に自信が持てるようになってきた頃だった。そして新太郎の英語力を試す絶好の機会が訪れた。
スウェーデンとアメリカから立て続けに友達がやって来たのだ。まずはライナスがスウェーデンから日本語を勉強するために3ヶ月間の短期留学にやってきた。元々は僕の店のお客さんだ。僕の家に夕食に招待したら、お土産にケーキを持ってきてくれて、"It's only small thing...(ちょっとした物ですが...)"と渡してくれた。スウェーデンではお土産を渡す時にはそう言うらしい。日本人が「ほんの気持ちだけですが...」というのに似ている。スーパーで食材を買う時もしきりにお金を出そうとしてたし、スウェーデン人って日本人と少し似ているのかなと思った。
新太郎がしゃべりだしてから初めてのネイティブスピーカーとの対面だったのでどうなるかと思ったが、僕がライナスと英語で話しているのを見て、自ら英語で話しかけていたので、新太郎の中で英語と日本語の違いはハッキリしているのだろう。しかも普段よりも流暢に話している気がする。これにはライナスもびっくりしていた。ライナスにたっぷり遊んでもらった新太郎は大喜びで、ライナスが帰る時、家の前まで出て送ったら、"Linus good-bye, Linus see you soon."とライナスが見えなくなるまで手を振っていた。

それからわずか2日後、今度はアメリカからギャリーさんがやってきた。彼も元々はお客さんで、去年初めて会って池袋の水族館に行った。新太郎は1歳だったのだが、水族館の写真を見せていたので、"Gary-san"と呼んで彼を驚かせていた。ギャリーさんは前回はほとんど日本語が話せなかったが、今回はある程度の会話ならできるようになっていた。本を読んで独学で勉強しただけでここまで話せるようになるんだと驚いた。新太郎はギャリーさんが日本語で話せば日本語で、英語なら英語で切り替えて話をしていた。ギャリーさんがプレゼントを持ってきてくれていて、「実は渡すものがあって...」と言いながらカバンから出した瞬間に目ざとく見つけて、"Thank you!"と大きな声で言って受け取っていた。息子よ、お礼を言うのは大切なことだが、イントロクイズの回答者のようなスピードでプレゼントに飛びつくのはやめてくれ。

ギャリーさんと会った翌日から、僕らは広島の彼女の実家へ移動した。彼女のお父さんは兼業農家なので、イモ堀りをしたり、トラクターに乗ったりして、新太郎は楽しそうだった。僕は2日間滞在して、独りで東京に帰ってきた。十一月に二人目の子どもが生まれる予定で、東京では世話をしてくれる人がいないため、広島で産むことになったのだ。年末まで二ヵ月半もの間、僕は一人暮らしになる。東京に戻る時、新幹線の駅でさよならを言って歩きだしたら、新太郎がずっと"Daddy!!"と叫び続けてたので、僕は我慢できずに一旦戻ってしまった。
せっかく英語が話せるようになってきたのに、二ヵ月半の間、日本語だけの生活になって、新太郎の英語はどうなるのだろうか?二人目の子は五体満足で元気に生まれて来てくれるだろうか?これまで数年間一緒に暮らしていた彼女と長く離れるのも初めてだ。色々なことを考えた。一人暮らし最初の夜は、朝6時過ぎまで寝付けなかった。 (つづく)

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小説版バイリンガル子育て 第15話 『チキンボーイとイルカたち』
更新日: 2010/06/26
テレビでは、新太郎と同じくらいの小さな男の子がお父さんと一緒に乗馬をしていた。"I want to do.(僕もやりたい)"と新太郎が言った。場所は神奈川県の三崎という所で、東京から1時間半くらいで行けるようだ。三崎港であがるマグロが絶品らしい。テレビでは、おじさんがマグロ尽くしの料理とお酒を楽しんでいる。"I want to eat.(俺も食べたい)"と僕は言った。親子で物の見事に旅番組に感化されて、僕たちは三崎へ一泊二日の旅行をすることになった。
9月17日、三崎旅行当日、天気は晴れ。早起きをして、電車に揺られ三崎口という駅まで行って、そこからバスで『ソレイユの丘』というテーマパークに行った。ここで乗馬ができるのだ。新太郎は旅行することが決まってから、毎日「Horse riding!! パッカパッカ」と乗馬の練習をしていたくらい楽しみにしていた。無論馬役は僕である。僕の背中をバシバシたたき"Go! Go!"と手綱を取っていた新太郎だったが、本物の馬を見て予想以上に大きかったのでビビッてしまい、"Scary.(怖いよ~)"と半べそをかいてしまった。乗馬のために、毎日背中をバシバシ叩かれ、わざわざここまで来たのだ。やらないで帰れる筈がない。僕は無理やり新太郎を抱えて馬にまたがった。そしてオーバーオールにネルシャツという、いかにもカウガールな出で立ちのお姉さんに引っ張られ、馬は渋々パドックを歩き出した。新太郎は僕の懐で硬直していたが、2周目になると安全なことがわかってきたらしく、ママに手を振る余裕も出てきた。馬から降りたあとで、もう一回乗ろうと誘ったら"No!"とハッキリ答えた。やっぱりまだ怖いのか。
乗馬のあとは、幼児用の浅い池で遊んだり、のんびりと午後を過ごして、夕食は僕がお目当てにしていたマグロ料理専門店に行った。刺身はもちろん美味しかったが、マグロの串焼きが気に入って何度もおかわりをした。新太郎も2歳児のくせにマグロが好きらしく、僕と同じくらいの量を食べ、なかなかいい額のお会計になった。

翌日、横須賀のホテルに泊まった僕らは、『油壷マリンパーク』という水族館に行った。ここのイルカショーを見るのを新太郎はとても楽しみにしていた。ところが、チキンボーイの新太郎に悲劇が訪れる。イルカショーが始まると会場は暗くなり、ハロウィンを意識した演出に新太郎がビビッてしまったのだ。新太郎は泣いてママにしがみつき、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。僕はあんなに大好きだったイルカの事を、新太郎が嫌いにならないか心配だった。
しばらくして新太郎が起きたので、プールに戻ったイルカ達を見に行くことにした。このプールは階段を上ると水面に顔を出したイルカが見えるようになっている。僕らが行くと、イルカが2頭プールの真ん中で水面に顔を出して休んでいた。僕はイルカに話しかけた。
"My son came here to see you guys but he was scared of the show and couldn't watch.I don't want him to dislike dolphins so please make him happy.(息子が君らに逢いたくって来たんだけど、ショーが怖くて泣いて見れなかったから、このままじゃイルカが嫌いになっちゃうから、息子を喜ばしてあげてくれよ)"
すると、寝転がっていたイルカ達が「キキキキキーッ」と鳴きながらコチラに近寄って来てくれた。新太郎は、"Dolphin coming!!(イルカが来たよ!)"と喜んで、イルカに逢ったら言おうと練習していた自己紹介の言葉"Dolphin nice to meet you. I am Shintaro."と一生懸命に言っていた。ありがとう、イルカ達。
きれいごとかも知れないが、僕は子どもに、動物や草木、命あるものすべてを友達だと思って欲しいと願っている。世の中には、いくら歩み寄ろうと思っても平行線のままの関係もあるし、それを目の当たりにして傷つくこともあるけれど、相手と分かり合える、そう信じて行動できる人になって欲しい。
そんな思いを知ってか知らずか、新太郎は道路の脇で見つけた小石に向かって"Hello Mr.Stone.(石さん、こんにちは)"と挨拶をしていた。(つづく)

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『子どもがバイリンガルになる英語子育てマニュアル』を出版しました!
更新日: 2010/06/15
6月10日に日本初の本格英語子育てマニュアル『子どもがバイリンガルになる英語子育てマニュアル』を出版させていただきました。たとえ英語が苦手な親御さんでも、日本にいながらにして楽しみながら英語が話せる子どもを育てるためのノウハウと日常英会話表現をまとめた本です。
『子どもがバイリンガルになる英語子育てマニュアル』のアマゾン販売ページへこれまでにも英語子育てのフレーズ集は何冊かでていますが、本書は、フレーズ集に加えて、どうすればお子さんが英語をしゃべるようになるのか、そのために何から始めて、どのように毎日を過ごしていけばよいのかを、わかりやすく説明してあります。親御さんは本書の指示に従って、順番どおりにやっていくだけで、ゆくゆくはお子さんが英語をしゃべりだします。毎日3分の英語時間を設けることから始めて、成長と共に英語の時間をできる範囲で増やしていけば、個人差はありますが、必ずゴールへと近づいていけます。タイトルに『子どもがバイリンガルになる』と書いてありますが、必ずしもバイリンガルを目指す必要はありません。各家庭でできる範囲でやってもらえばよいと思います。
早期に英語を学ぶメリットは何があるでしょうか?
・小学校・中学校の英語の授業で苦労しない⇒その分ほかのことに時間を使える
・英語ができると受験・就職に有利
現在、お子さんを英語教室に通わせている親御さんは上記の2つを大きなメリットだと考えている方が多いと思います。ですが、実際は他にも多くのメリットがあるのです。僕は
「地球には色んな人種がそれぞれ色々な環境の中で生きている、一人一人みんな違う、でもみんな同じ人間だということを理屈じゃなく自然に感じて欲しい」
という願いを込めて英語子育てを始めました。僕は、高校の時にオーストラリアに留学して初めて外の世界を見ました。それまでは本当に小さなコミュニティの中で、周りと自分を比べて生きていました。オーストラリアで様々な人種、様々な環境の人たちと出会い、自分はなんてちっぽけな人間だったのだろうと気付かされました。他人と比べて上か下かなんてことに必死だった自分に別れを告げて、もっと大きく物事を捉えられる人間になりたいと思うようになりました。
英語子育てをすることで、まず日本語以外の言葉があることを知り、日本以外の国があることを知ります。そして動物の鳴き声や、しずくが落ちる音などのニュアンスの違いに気が付きます。文化の違いにも気がつき始めます。そんなところから、少しずつ地球の中の自分を感じてもらいたいと思っています。
現在4歳0ヵ月になった息子は、ワールドカップの出場選手のデータと、世界地図を照らし合わせながら、地球のことを自ら学んでいます。僕がそれぞれの国にどんな国で何があるのかを教えてあげたりして、彼の中で世界はどんどん身近になっています。そして興味は自分の国である日本にも広がります。息子は47都道府県を漢字で読むことができ、それぞれの名産品や観光名所なども覚えつつあります。これは僕が教えた訳でなく、息子がテレビの地デジについているゲームで自分で学びました。
僕は、息子に英語を教えるにはどうすれば一番効率が良いかをずっと考えてきました。そして楽しいと思っている時、笑っている瞬間が一番、英語を吸収していることに気がついたのです。それ以来、どうすれば息子の笑いが取れるのか、楽しいと思ってくれるかを真剣に考えて試行錯誤しています。子どもの好奇心を刺激して、それを一緒に調べたり、実物を見たりして解決して、知識にしていく。これを繰り返していくうちに、息子の中に自分で学習するシステムができました。
興味を持つ⇒疑問を解決する⇒自分の知識になる
僕の提案する英語子育ては、続けるとお子さんの自分で学習できる力が伸びるようになっています。これも非常に大きなメリットです。自己学習ができるようになれば、お子さんが自分の力で成長できるようになります。
もう一つ大きなメリットは、本書のマニュアルに従ってやっていくと、高いコミュニケーション能力が身につくということです。僕の友達で英語を使って働いている人達とよく話すのが、「なんだかんだ言って英語を話せる人ってまだまだ少ないよね」ということです。確かに英検やTOEICなどで素晴らしい成績をあげるひとは増えてきています。それでも現場レベルになると、そう感じるのです。その原因はコミュニケーション能力不足にあります。社会に出ると、英語のレベルだけで評価されるのではありません。高いコミュニケーション能力に英語がプラスされて、初めて英語を使って仕事ができるレベルになります。本書では表現力を高めるためのアドバイスも多く載っていますので、参考にしてもらえると思います。
そして最後に、「世界中の人と友達になれる」。
僕は仕事やプライベートで多くの外国人と交流していますが、これは本当に楽しいです。色々な国の人と、色々な国の料理を食べて、お互いの国の特徴とか文化の違いについて話したり、人生が倍楽しくなります。英語は世界共通語です。最も多くの国で使われている言語です。英語がわかれば多くの人と友達になるチャンスが増えます。
『子どもがバイリンガルになる英語子育てマニュアル』はそんな考えの基に書き上げました。このコラムを読んで共感してくれた親御さんに読んでいただければ、お子さんの可能性を広げ、魅力的な人間に成長するお手伝いができると思います。
高橋正彦
追伸:『GO豪メルボルン』をご覧の方の多くはオーストラリアにお住まいだと思いますが、その場合は僕が英語でしていることを日本語ですれば、英語圏にいながらにして、楽しく日本語が習得できると思いますし、自分で学習する力を身に付けるノウハウはそのまま使えると思います。

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更新日: 2010/05/30
彼女が電話越しで興奮している。どうしたのか尋ねると、じゃがりこを新太郎と一緒に食べていて、彼女が何個かまとめて取ったら"One each!(1個ずつだよ!)"と怒られたと言うのだ。僕はひとり東京のアパートで、卑しい嫁と息子のじゃがりこを賭けた骨肉の争いを想像して呆れてしまった。なんて、ケチな奴らだろうと。
彼女は新太郎を連れて一週間ほど広島の実家に帰っている。毎日ひとり寂しくコンビニ弁当を食べ、発泡酒を飲んで一週間が過ぎるのを待っている僕にとっては、毎晩の電話は束の間のオアシスである。恋焦がれる嫁と息子の姿を想像しつつ電話を取った僕の耳に飛び込んだケチな二人のじゃがりこ騒動。「いいじゃん仲良く食べれば」僕が冷めた声でそう言うと、「そうじゃないの!」と彼女のトーンは一層高まった。
"One each!"と新太郎に怒られた彼女が、「シン君、どこでone eachなんて覚えたの?」と新太郎に尋ねると、新太郎が"Daddy Natto."と言ったらしい。そうだ、彼女たちが広島に行く日の朝、僕は3パックまとめ売りの納豆をひとつずつ僕と新太郎の前に置いて、"One each, OK(1個ずつだよ、いいね)."と言ったのだった。「そんなことを覚えていたのか!すごいなあシンは!」ほんの一瞬前までケチな嫁だと決め付けていたのをすっかり忘れ、僕は携帯電話を片手にひとりニヤニヤしていた。
こんな感じで新太郎が何かをする度に、僕らは親バカ丸出しで喜んだ。今になって冷静に振り返ってみると、新太郎が生まれてから2年間、意味があるのかもわからない状態で始めたバイリンガル子育ての成果が出始めたことが、僕ら夫婦にとってはとても大きかったのだと思う。逆に言えばそれだけお互いに頑張ったのだ。
そんな親バカに答えるように新太郎も色々なことをしてくれた。おもちゃのドラムを「これ何?」とママが聞けばドラムと答え、僕が英語で聞けば"Dram"と英語発音で答えたり、僕が食べていたお菓子を食べたくて、"Can I have?(ちょうだい)"と言ったり、ママが机の角に足の小指を思いっきりぶつけた時には、"Are you OK?(大丈夫?)"と心配して、"Don't cry.(泣かないで)"と声を掛けた。彼女は涙を浮かべて喜んでいた。
極めつけはこれだ。テレビに映ったゾウガメを指差して、"Big turtle isn't it?(大きなカメだよね)"と言ったのだ。"isn't it?"という表現は付加疑問文という文法で、僕が中学3年生で習ったものだ。彼女は人生で一度もこの付加疑問文を使ったことはないし、今後も使うつもりもないと言った。そんな高度な言葉を、少し前まで赤ちゃんだった若干2歳2ヶ月の子が話したのである。赤ちゃんが「~だよね。」とフランクに話しているのである。「お前はEAST END×YURI(1994年に『DA.YO.NE』がミリオンセラーを達成した日本のヒップホップユニット)か!」と日本語でつっこめないのが残念だったのは、後にも先にもこの時だけだろう。
そして新太郎は、別の意味でも成長を遂げていた。僕の友達がうちに来て飲み会をやったときのことだ。皆でテレビをつけながら酒を飲んで談笑していると、新太郎が突然テレビを指差して"Naked!(はだかんぼ)"と言ってニヤけたのだ。ブラウン管の中では土曜ワイド劇場のお姉さん達がお約束のポロリをしながら温泉を楽しんでいた。僕の悪友共は「シン君、お父さんに似て好きだなあ」「将来有望だぞ」などと言って喜びだした。そして新太郎はこともあろうに自らシャツをまくっておへそを出してヘラヘラしている。「それは俺じゃない、俺じゃない…」僕の叫びは悪友達の笑い声にかき消されていった。(つづく)

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小説版バイリンガル子育て 第13話 『時を越え沖縄で再会した僕ら』
更新日: 2010/05/20
思えばこれが、新太郎が生まれてから初めての家族旅行だった。慣れない子育てに二人で奮闘している間にあっという間に二年が過ぎた。少しだけしゃべれるようになった新太郎は、この沖縄でどんな思い出を作るのだろうか。
空港で友達と会って、まずはA&Wという沖縄ではメジャーなハンバーガーを食べた。アメリカ人が好きそうなこってり味でボリューム満点だった。しかもコーラはお代わり自由。 食後は、着付けの免許を持つ彼女の希望で、沖縄かすりという着物を作っている工場を見学して、その後、早速沖縄の海に行った。新太郎を海に入れるのは初めてだったので、最初が肝心だと海に落としてやったら溺れて大泣きして、"Scary!(怖いよぉ!)"と叫びながら砂浜に逃げ帰って行った。 僕は"Scary"なんて言えるのかと息子に感心しながら、「人間は生命力に溢れているから、海に落とせば自然に泳げるようになる。俺はそうだった」と焼酎をあおりながら言っていた親父の言葉を信じた自分を恥じた。

泳いだ後は、ホテルに戻って着替えて、再出発。車を走らせること10分。突然友達が畑のような所に車を入れた。そう、彼の「マイファーム」だ。年間5500円で借りられて、水は使い放題。トマト、アロエ、パパイヤ、ゴーヤ、とうもろこし、オクラ、紅イモなど、たくさんの野菜や果物がなっていた。毎日の食卓には、この畑で作られた食材が必ず何点かは並ぶそうだ。「今回は中身がスカスカだったから、来年はこうしよう」などと相談して美味しい食材を作るのも楽しいし、多少苦いのができたときもそれを個性として受け入れて、楽しく食べられるという話を聞いて、素敵な生活をしているな、と改めて思った。新太郎は、はじめて実際になっているトマトやパパイヤを見たり、水をあげるのを手伝わせてもらって目を輝かせていた。その輝きがテレビでミッキーマウスを見ている時のそれとは違っていて、ミッキーが悪いとも思わないけど、やっぱり子どもは自然に触れさせてあげたいなと思った。
畑を出た後は、世界遺産に認定されている座喜味城跡(ざきみじょうあと)に行った。 ここは1420年頃に護佐丸(ごさまる)という武将が築城したとされている城の跡で、入口の石碑以外に特に何の説明も無いのだけど、ものすごいパワーを感じる場所だった。お城があるわけじゃなく、石垣に囲まれているだけの空間なのだが、ここが何だったかとか、そういうことを知らなくても説得力があるもの凄い場所で、言葉では上手く説明できないのだが、あえて言うならば、築城から600年後の現在までの時間の渦の中にいるような気分になってしまうというのが一番近い。ここに来るまで車の中ではしゃいでいた新太郎だったが、車を止めた途端にパタリと眠ってしまった。僕は新太郎を抱きかかえて城跡に入っていった。先に来ていた一組の外国人観光客とすれ違い、木でできた細くて急な階段を登り、一番高いところで友達が記念撮影をしようとカメラを構えた瞬間だった。ふっと何かがよぎった。自分なんだけど自分ではない感覚。すぐに隣にいた彼女を見た。
「今、昔ここに来た気がしなかった?」
「した。沖縄に来るの初めてなのに、ずっと昔にきたような気がした」
「俺たち昔も一緒にいた時があったのかなあ」
「ここに来てすぐに新太郎がパタって寝ちゃったから、きっと新太郎が過去と現在を繋いでるんだ」
「じゃあその時も三人一緒だったんだね」
普通に聞いたら笑っちゃうくらい恥ずかしい会話だけど、その時は素直にそう思った。「また会えたんだね」そう言って僕らは笑った。

それから数日後、沖縄から戻った僕らには日常が待っていた。朝起きて、新太郎と少し遊んで仕事に出かける毎日。あの沖縄の座喜味城跡での感覚はなんだったんだろうか?あれから彼女とはその話はしていない。新太郎が、沖縄で買った小さなシーサーの人形を両手にひとつずつ握り締め、それを交互に差し出して"Girl""Boy"と言った。口を開いているのがオス、閉じているのがメスである。なんで知っているんだ新太郎。やっぱりお前もあの場所にいたのか。
「また会えたんだね」 (つづく)

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