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第九回 病棟に届いたニュージーランドからの手紙


1984年10月、その筋では有名な横浜にあるM病院に入院した。手術は無事終わった。そして、待ちに待った術後5日目のお風呂の日がきた。一カ月前に9年弱勤めサラリーマンを自ら下りていた。

まず頭を洗った。痒くて痒くて仕方なかった。指を頭に立てて揉むようにゆっくりと押し洗う。そして、お風呂だ。快感とは,この日のためにあったのかと思えるほどの極上の時。

患部を初めとして体中の血の巡りが絵を見るように感じられる。このままお湯と一緒に流されていってもいいような、そんな許されたたった5分の至福のときだった。

上気したまま病室に戻り、その気分に酔っていると母が見舞いに来てくれた。

「どっか知らないけど外国から手紙だよ。」
そういって母が渡してくれたのはニュージーランドからの手紙だった。私の手術のことが国際的に知れ渡ったのだろうか。差出人を見ると全く覚えがない。

「初めてお手紙いたします。」
「私の最愛の一人娘が先日亡くなりました。」

これは、なにかのいたずらか、不幸の手紙か。

「死因は喘息でした。前から患っていたのですが、最近悪化してとうとう帰らぬ身となりました。タコさんは、一体誰のことを言っているのかとお思いでしょう。実は、娘はタコさんと一度だけでしたが、お会いしているのです。」

突然、私の知らない所に私の分身でもできていて、その責任を取れとかいった手紙なのかと、お風呂で上気していたからだ体から血が引いた。

「私は、娘が3年前に勤めていた会社の日本研修旅行に行った際、その会社関係でタコさんとお会いしたジュリーの母でございます。」
「たった、10日間の研修旅行でしたが、タコさんには大変よくしていただき。帰国してからも思い出しては話しをしていました。」

3年前の研修旅行でお世話した、20人のニュージーランドの方々のうちの一人のジュリーさんのお母さんからの手紙だった。確かに、男性の方々より女性の方々に、より親切にするというクセは昔からあったように思える。
「ジュリーの短い人生の中で最も楽しかった思い出の一つとして、きっと天国に持っていったと信じています。突然死ぬ少し前まで、もう一度日本に是非行って見たいと申しておりました。」

ジュリーとは帰る前の日に朝から晩まで買い物に付き合った仲だった。秋葉原、新宿などを見せて歩いた。田舎の純朴なジュリーの喜ぶ顔を見るのが嬉しかった。ただ、本当にそれだけのことだった。感謝されるようなことは何もないと思ていった。

ニュージーランドに帰ったジュリーからお礼の手紙をもらってはいた。しかし、それ以後はまったく忘れていた人だったのだ。

「死は、誰も予期していなかった時に突然襲ってまいりました。こんなに短い人生で、哀れでなりません。23歳ですよ。そんなわけで、まだお会いしたこともないタコさんに、最初で最後のお礼のお手紙をお出ししました。いつか、ニュージーランドに来られることがあったら、是非お知らせください。タコさん、本当にありがとうございました。」

知らないところで、忘れていた些細なことに感謝していてくれる人がいる。天井の薄茶色の染みを見つめながら暫く動けなかった。

それから一週間して、私はこの、「死に至らない病」の人たちがぎっしりと詰まる6階建てのM病院をジュリーの手紙とともに後にした。

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(タコ社長の本業)


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プロフィール

東京は東村山からオーストラリアに移住して24年目を迎えている。その間、人種を超えてさまざまな方々と出会ってきた。そんな方々との出会いをもとにして、定住者、旅行者、中長期滞在者、学生、ワーホリなどの方々との一期一会を綴ってみることにした。また、番外編としてオーストラリア以前の一期一会も記していきたい。

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