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教え子(最終回)

今から思えば、オーストラリアで日本語教師のアシスタント募集という広告を見なかったら、オーストラリアに行くなんて思いもしなかっただろう。教師生活3年目にして、何となく自分のレールに乗った一生が見え始めたとき、何とかそのレールを抜け出して、チャレンジするものが欲しくなっていた。そんな時にその広告を見て、飛びつくように応募したのだ。うまくアシスタントとして採用され、オーストラリアの教員課程を勉強して、一人前の日本語教師となって、もうすでに15年が経つ。
 和洋折衷料理が次々に運び込まれ、アルコールも回った頃、誰からともなく、校歌が歌われ始めた。皆と肩を組み、「若き希望に満ち、我らが学ぶXX高校」と大きな声を張り上げて唄っているうちに、皆との一体感に洋子は久しぶりに気持ちが高揚してきた。よく考えてみれば、オーストラリアに行ってこのかた、自分がいかに疎外感を感じていたのかを思い知らされた。
 10時にお開きになった時、福原が「先生、お送りしますよ」と言ってくれた。ホテルのロビーで皆に挨拶をして、ホテルを出ると、福原が「この近くに海があるんですが、行きませんか?酔い覚ましになりますよ」と言った。このまま自分のホテルに帰って寝るだけなのは惜しい気がして、「いいわね」と言って、洋子は福原の後をついて行った。海辺はホテルから歩いて10分くらいの所にあった。海からの塩の香りを含んだ風が吹きつけ、酔ってほてった体に心地よかった。
 福原は海を見ながら、「僕、芥川賞を取れたのは先生のおかげだと思っています」と言った。
洋子は時折添削してやった福原の作文を思い出した。
「あんな、添削でも役に立ったなんて、嬉しいわ」と言うと、福原は洋子の顔を見て、思い切ったように、言った。
「それもありますが、僕、先生に憧れていたから、先生に褒められるような人間になりたいといつも思っていました。先生が文学好きだったことを知っていたから、先生のために芥川賞をとってやるぞと、この15年フリーターの仕事をしながら、小説を書き続けていたんですよ」
 福原の言葉は洋子の胸にどっしりとのしかかってきた。自分がそんなに生徒から憧れられるような存在だったと一度も思ったことがなかったからだ。
「ありがとう。そんなに言われると、教師冥利につきるとしか言いようがないわ」と言った。
 海の水が岩壁に当たってぽちゃぽちゃと言う音が聞こえる以外、静寂に包まれていた。明るい月の光で波がさざめくたびに海の表面が魚のうろこのように銀色に光る。二人ともしばらく黙ってそれぞれの思いに浸って、海を眺めていた。洋子は、福原の一言で、教えることに虚しさを感じていた気持ちが、すっ飛んでいた。教えることって素晴らしいことだと、新任の時の気持ちが蘇っていた。他人の人生にこれほどの影響力を与えられる存在になれる職業ってそんなにないだろう。
 海を後にして福原は、洋子を滞在先のホテルに送り届ける途中、
「芥川賞をとったといっても、これからが勝負どこなんです。皆第二作を期待していますからね。第二作が書けなくて、消えていく作家が多いんですよ。それに今は出版界も、本を読まない人口の増加で、苦境に立っているところが多いんです。だから、厳しいです」と、暗い顔をしていった。
「大丈夫よ、福原君なら。あなたには才能があるんだから」
「先生にそういっていただけると、何よりも嬉しいです」
またいつものはにかんだような顔をした。
洋子の泊まっているホテルの前まで来ると、福原は
「先生、来年、結婚するんですが、結婚式に来ていただけませんか?」と言った。
「勿論よ。小説の執筆、頑張ってね」と言って、洋子は手を差し出した。福原はその手を握り、大きく手を振って握手をして、再会を約束して別れた。
ホテルの部屋に落ち着いた時、洋子はつくづく教え子の同窓会に出席してよかったと思った。
 最近の洋子は教えることが虚しくなってきていた。知識の切り売りをしても、それがどうなるのだろうと、不毛な砂漠をさまようような殺伐とした気持ちに陥っていた。でも、たとえ一人でも福原のような生徒がいてくれさえしたら、決して自分のやっていることは無駄ではないのだ。そう確信できるようになった。オーストラリアでも素晴らしい教え子に出会えるかもしれない。そう思うと、洋子の顔に希望の微笑が浮かんだ。

ちょさk

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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