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百済の王子(1)

プロローグ
時は642年、今の朝鮮半島の西に位置し細長い領地を持つ国、百済で、話は始まる。
その頃、朝鮮半島は三国時代と呼ばれる時代で、北は高句麗、南西は百済、南東は新羅と三国に分かれていた。いや、三国と言うのは正確ではない。百済と新羅にはさまれた日本海に面するところには任那と伽耶と呼ばれる国があり、任那は倭国、つまり日本の支配下にあった。
百済の義慈王は次男の豊璋を自分の跡継ぎとして太子に立てていたのだが、クーデターが起こった。クーデターを起こしたのは長男の隆と彼の取り巻き連中だった。隆の母親は、義慈王の寵妃であったが身分が低く、王妃に豊璋が生まれたため太子になれなかったのだ。ところが義慈王が重病に陥ったとき、王妃があせって豊璋を王に即位させようとした。九死に一生を得て、病気が回復した王は、そのことを知って激怒して、 豊璋を廃太子して、隆を太子にした。この時豊璋の母は、 豊璋の妹4人と、母に加担した者達40名と共に島流しにされ、豊璋と豊璋の弟禅広を倭の国へ人質として追いやられてしまった。その頃の王国は権力をとるための陰謀がうずまいていたから、太子が地位を追われることは珍しいことではなかった。命をとられずにすんだということだけで、豊璋は幸運だったといえるかもしれない。
豊璋は、弟禅広、そして妻子とともに、倭国に発つ船に乗った。船が百済の港を離れ、百済の地が遠く水平線上に消えていくのを眺めながら、もう二度と百済の地を踏むことはないだろうと思うと、涙した。日本海の荒海に豊章はひどい船酔いにかかり、吐き気と頭痛に悩まされ、床に伏せる日が続き、船旅のつらさはこれからの自分の人生を思わせるようで、暗澹とした気持ちに陥れられた。

著作権所有者:久保田満里子
 
 

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カウラへの旅(最終回)

次に中島がしゃがみこんだプレートには「Fusao Ito」と、書かれていた。
「こいつはね、とても陽気な奴で、余興には必ず出て人気者だったよ。本名はいまだに分からないけれど、国には奥さんと2歳の娘がいると言っていたよ。きっと生きて日本に帰りたかっただろうになあ」と言うと、中島は目頭を押さえた。
「Fusao Ito」の隣には、「Takeo Iwai」と書かれているプレートがあった。この岩井も中島の知り合いらしく、中島はそこにもしゃがんで、お祈りをした。
「こいつはね、足を戦争で悪くしてしまって、びっこをひいて歩いていたよ。下山が走れない者は事前に自分で身の始末をしろと言ったので、岩井は暴動が起こる前に首をつって死んだよ。岩井だけでなく、皆走れない者は、事前に自決してしまったよ」
良太は下山と言う男もその暴動で死んだのだろうと思い、中島のあとを一人ひとりの名前を見て行ったが、なかなか見つからない。
「下山っていう人のお墓は見当たりませんね」と良太が言うと、中島は、「下山か」と、軽蔑したように言うので、良太は一瞬驚いた。
「下山は死ななかったんですか?」
「うん。下山の奴、あの暴動では死ななかったんだよ。生き残っている下山を見て、憤りをおぼえたよ。皆を死に追いやって、おめおめと生きているなんて。皆の罵倒と軽蔑の視線に耐えかねたのか、奴は暴動のあった翌日、食堂の側のボイラー室で首をくくって死んだよ。だからあいつが死んだのは8月6日で、8月5日じゃないんだ。だからあいつの墓標はもっと先のほうにあるよ」
どこまでも続くように思われる墓標に良太は圧倒された。死に急ぐという言葉が良太の頭に浮かんだ。こんなにも多くの人が死に急いだのかと思うと、厳粛な気持ちに襲われた。
一人ひとりの名前を丁寧に見ていくうちに、「享年 8ヶ月」と書いてあるのを見つけて良太はびっくりした。
「赤ちゃんも捕虜になっていたんですか?」と、中島に聞くと、中島は
「ああ、それは捕虜じゃなくてきっと収容所で生まれた、抑留された人の子供だろう」
「収容所にいたのは、戦争捕虜だけではなかったんですか?」
「そうだよ。このカウラには戦争捕虜しかいなかったけれど、ニューサウスウエールズ州には、カウラのほかにヘイという収容所があったし、ビクトリア州にはタチューラという収容所もあった。確か南オーストラリア州にもラブデイという収容所があったはずだ。その頃オーストアリアに住んでいた日本人は皆財産を没収されて抑留されたんだ。だから、次の銘板の享年をみてごらん。72歳と書かれているだろ。この人はきっとオーストラリアに永く住んでいて抑留されて、収容所で死んだ人だろうね」と、言った。
「じゃあ、この人はカウラで死んだわけではないんですね」
「そうだね。きっと死んだ後タチューラからでも送られてきたんだろう」
良太たちが、お墓の入り口のほうに行くと、まるで日本の庭園のように白い石を敷き詰めたところに大きな石灯籠があり、石灯篭の前にある大きな鏡石には、「Japanese War Cemetery」と掘り込まれていた。
お墓の入り口の前で中島と別れることになり、良太は、中島にお礼を言った。
「中島さん、今日は色々教えてくださって、ありがとうございました。戦争があったときは、生きたくても生きれなかった人がたくさんいたんですね。僕、これまであまり戦争のことを考えたことはなかったけれど、今晩うちに帰ってゆっくりと戦争のことを考えて見ようと思います」
中島は、穏やかな笑みを浮かべて、
「僕も戦争で生き残ったけれど、生き残ったからこそ、命を粗末にしてはいけないと身にしみて思うようになったよ。君も自分の命を無駄にしないように生きてくれ」と言って、握手をするように手を差し伸べた。
良太は中島の手を握って、力強く大きく振って握手をした。
デニスは中島に、「もし、キャンベラに来るような事があれば、うちに来てください」と、自分の家の電話番号を渡して、握手をした。
中島と別れたあとは、カウラの名所と言われる日本庭園に向かった。デニスの話では、日豪の平和と友好の象徴として、日本庭園が造られたということだった。入り口にあるちょうちんには「Japanese Garden」と書かれていた。入り口の桜は5分咲きになっていて、訪問客が皆桜の木を背景に写真を撮っていた。
入り口となっている建物で入場券を買って建物を抜けて外に出ると、大きな庭が見えた。池あり、丘ありで、ずっと平坦な原野を見ていた良太は、その美しさに感嘆の声をあげた。
経路と書かれた標識に従って小道を歩いていくと、ちょっと丘のようになっているところがあり、そこにある岩の上に立ってみると、池だけでなく、小さな建物もいくつか見られた。その後庭を探索していくと、日本家屋があって、外から畳の部屋が見え、誰が弾くのか知らないが、琴が立てられていた。藤棚もあり、ちょうど藤の花が垂れ下がって、良太たちの目を楽しませた。藤棚の前には大きな池があり、鯉が泳いでいた。池には石橋がかかっており、池の向こう側に、もう一軒和風の家が見られた。盆栽を飾った小屋もあった。良太は日本に帰ったような錯覚に襲われた。また、出入り口に戻ると、日本のお寺にあるような大きな鐘があった。
「これ、ついてもいいのかな?」と、デニスに聞くと、「ついても、かまわないだろう」とデニスが言うので、良太は思い切り鐘をついてみた。「ゴ~ン」と余韻をもって鳴る鐘は、良太に除夜の鐘を思い出させた。
出入り口についていた建物には「文化センター」と書かれていて、中に入ってみると、
日本の陶器や人形、兜などが飾られ、窓ガラスからは石庭が見えた。
デニスから、「もう帰ろう」と、言われるまで、良太は熱心に展示物を見て回った。
「こんなオーストラリアの田舎町に、日本の物がこんなにたくさんあるなんて、ここに来るまで知らなかったよ」と、良太が言うと、
「来てよかったと思う?」とデニスが聞いた。良太は、デニスの顔を見ながら、大きく頷いた。
その後、デニスの車に乗って、カウラの町が遠ざかって行くのを見ながら、良太は物思いにふけった。中島に言われた事を、思い出していたのだ。
良太は周りに死んだ人を身近に見ていない。それに、今まで生きるか死ぬかと言う状況に陥ったことがなかった。だから、何となく毎日を過ごしてきたような気がする。コンピュータゲームに夢中になっている時だけが、楽しいと思える時間だった。だから一日の大半をコンピュータの前で過ごしてきた。でも、今日中島の話を聞いて、心をうちのめされた。こんなに毎日無意味に暮らしていいのだろうかと。生きたいと思っても生きられなかった時代に生まれた人達に対して、今の自分が何となく恥ずかしいような気がしてきた。何かをしなくちゃ。まだその何かが良太には漠然としてつかめなかったが、生きる意欲のようなものが心の奥底から湧き出てきた。


参考文献
Neville Meaney (2007) ”Japanese breakout from Cowra POW camp” in toward a New Vision: Australia and Japan across time pp.146-151

中野不二男 (1991)「カウラの突撃ラッパ:零戦パイロットはなぜ死んだか」文芸春秋社

Steven Bullard translated by Keiko Tamura (2006) “Blankets on the wire: The Cowra breakout and its aftermath” (鉄条網に掛かる毛布) Australia War Memorial

William Appleton(1998), 『理解』(Rikai means Understanding) A guide to the Japanese war cemetery.

高原希国((1998) 『新カウラ物語』「オーストラリアの日本人―世紀をこえる日本人の足跡」pp.86-87. Japan Club of Australia

インターネットサイト

Cowra breakout-Wikipedia, the free encyclopedia

” The Cowra Breakout” by David Hobson

Japanese Garden and cultural centre-Cowra

The centre of Japanese cultural heritage in Australia

注:「理解」には、下山としたつは、8月5日没とされている。しかし、他の生存者の証言では、下山は8月5日以降に自殺を図ったということである。

著作権所有者:久保田満里子

 

 

 

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カウラへの旅(6)

~~中島は良太が黙ってしまったので、ちょっと言い過ぎたと反省したのか、平静な声に戻って言った。
「あの頃はね、どの国も経済封鎖をして、日本はにっちもさっちもいかなくなっていたんだよ。だから日本はアジアに大東亜帝国という大きな経済圏を作ろうとして戦争を始めたんだ」
良太はどうして戦争が始まったのか、あまり関心はなかった。ただ日本が他の国を植民地にしようと侵略戦争を起こしたくらいの認識しかなかった。
「でも、武力で他の国を侵略しようと言うのは、よくないですよね」
「君は平和病にかかっているようだね」
「平和病?」
「そうだよ。武力なくして国が成り立っていくという幻想に取り付かれている人がかかる病気のことだよ」
「でも、今の日本は武力放棄をしていますよ」
「それも、建前だけだよ。実際には、アメリカの軍事力に頼っている。もし米軍がいなくなったら、中国か北朝鮮に侵略されるのは、目に見えているよ。今の世の中で武力を持たないことは国際社会で発言権も弱くなるってことだよ。アメリカもロシアも核兵器を持っているくせに、他の国が核兵器を持とうとすると非難轟々だ。それは、ほかの国が自分たちのように強力な武器を持って、国際社会の発言権が強くなるのを恐れているからだよ。武力を持たないで自分の国を守れるなんて考えるほうが間違っている」
確かに今アメリカの軍事力が日本を保護しなかったら、すぐに中国や北朝鮮に領土を侵略されるだろうなと、国際関係にうとい良太にも想像できた。
「これが、収容所で死んだ人の銘板だよ」と言いながら、中島は「Tadao Minami」と記されたさびかけた銅版の前にしゃがみこんだ。良太もデニスも中島につられるよに、中島の後ろにしゃがみこんだ。
「中島さんは、この南っていう人、知っているんですか?」
「うん。この人は英語が上手で、キャンプのサブリーダーをしていたからね。ここには南忠男って書いてあるけれど、これは偽名でね、あとで中野不二男っていうジャーナリストが調べたら、豊島一って言う名前だったことが分かったよ」
「偽名なんですか。どうして偽名なんか使ったんですか?」
「今さっきも言ったように、その頃は日本人にとって戦争捕虜になることは、とても恥ずかしいことだと思われていたんだよ。だから、自分が捕虜になったと言うことが知られれば、日本にいる家族が非国民の家族として制裁を受けることを心配したんだ。家族が制裁を受けるより、家族に名誉の戦死をしたと思われるほうがいいと思って、皆偽名を使ったんだ。この南って言う人は、ゼロ戦のパイロットで、オーストラリア軍の最初の捕虜になった人だ。暴動が起こったときは、突撃ラッパを吹いて、真っ先に収容所の出口に向かって、射殺された人だよ」
「皆武器を持っていたのですか?」
「武器?そんな物はなかったよ。せいぜい野球のバットとか食事に使うナイフとかフォークを持って突撃したんだ。だって、皆死ぬ覚悟だったからね。ラッパが鳴り響いたのが午前2時。皆有刺鉄線を乗り越えるために毛布と、武器の食事用のナイフを持って、小屋の下に置かれていた薪に火を放って、出口に向かって無我夢中で走っていったんだ」
「武器がなかったから、オーストラリア軍の死傷者が少なかったんですね」
良太は、日本兵の死傷者が231名に比べて、オーストラリア兵の死傷者が4名と、少なかったことを思い出した。
中島が黙祷をささげているのを真似て、良太もデニスも中島の後ろにしゃがみこんで、黙祷をささげた。

著作権所有者:久保田満里子
 

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カウラへの旅(5)

~~中島はポツリポツリと暴動のことを話し始めた。
「あれは、1944年の8月4日のことだった。戦争が終わる1年くらい前のことだ。日本人の戦争捕虜の数が増え続けていて、収容しきれなくなったから、下士官と兵を別々の所に収容することにしたとオーストラリア軍のほうから通達があったんだ。そのころの日本の軍隊では隊の結束が強かったから、下士官と兵が切り離されるということに強い抵抗を感じる人が多かったんだ。だから、その通達を受けて、この際できるだけオーストラリア軍に被害を与え、自決しようとする意見がでてきたんだよ」
「自決って言うと、自殺するって事?」
「まあ、そういうことだ」
「捕虜になっていた人たち、皆自決したいと思っていたの?」
「それは違うな。オーストラリアの収容所ではちゃんと食べさせてもらって飢えることもなかったし、毎日野球だ芝居だとのんびり平和に暮らしていたから、このまま平和に暮らしたいと思う人のほうが多かったよ」
「じゃあ、上官から命令を受けて暴動を起こしたの?」
「いや、この暴動には将校はかかわっていないんだよ」
「そういえば、収容所の見取り図を見たら、将校と下士官は別のところにいれられていたよね」
「そうなんだ。その頃下士官のキャンプには42の班があったのだが、ほとんどの人がこのままおとなしく別の収容所に行こうと思っていたんだ。でも、班長会議で下山という班長が暴動を起こそうといい始め、皆が黙っていると『貴様たち、それでも帝国軍人か。非国民は前に出ろ。おれが始末してやる。出撃できぬ奴は自分で身を始末しろ』と息巻いたのがきっかけになって、下山の意見に同調する者たちが出てきて暴動の話になったんだ」
「じゃあ、その下山っていう班長が暴動を扇動したの?」
「扇動したと言えば、扇動したことになるけれど、実際には、班の意見を聞いて投票をして決めようということになったんだ」
「へえ。民主的に決まったって訳なんですね」
「民主的といえば、民主的だけれど…。班長たちが班に戻ってトイレットペーパーの紙切れを配って、暴動に賛成ならO、反対ならXをつけて、無記名投票をしたんだ。その結果暴動に賛成が80パーセント、反対が20%で、暴動を決行することになったんだ」
「自決したくない人が多かったのに、どうして投票するとき暴動に賛成する人が多かったんですか?」
「実は、その結果を見て、驚いた仲間が多かったよ。皆賛成する者は少ないだろうと思っていたからね。でも、実際には反対の気持ちがあってもOをつけた人が多かったんだよ。僕も、その一人だったけれどね」
「どうして反対の気持ちがあったのに、Oをつけたんですか?」
少し考えてから、中島は答えた。
「建前と本音って、考えればね、建前はいさぎよく自決するべきで、本音は生きたいということだったんだ。あの時は建前が勝ってしまったんだね。だって、『貴様ら、それでも帝国軍人か』と言わて、多くの戦友が死んでいった中、生き残っていては、死んだ戦友たちに対して申し訳ないという気持ちが強くなってしまったんだ」
「ふうん。そうなんですか…」
良太にはその時の中島の気持ちを想像するには時間がかかりそうだった。
「それじゃあ、今のイスラム原理主義者のテロリストと同じみたいですね」
そう言うと、中島の顔が怒りで真っ赤になった。
「死んでいった仲間をテロリストと同じだと思うなんて、そんな暴言は許せん。今の日本の若者は戦争で亡くなった多くの人たちの犠牲のうえに、今の日本が成立しているのを忘れている。けしからん!」と、怒鳴りつけるように言った。
中島の剣幕に良太は恐れをなして、黙り込んだ。そして、心の中で、こんな考えの老人が多いから、中国や韓国と摩擦を起こすのだと、少しうんざりしてしまった。
著作権所有者:久保田満里子

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