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ハンギングロック:後藤の失踪(9)

1月2日
(日付がまた1ヶ月も飛んでいるのを見て、聡子は「とたんに一ヶ月に一回の記録になるなんて、三日坊主のあの人らしいわ」と思った。)

 夏休みは子供たちと海辺で遊んであっと言う間に終わった。夏と言っても25度くらいの涼しい日が続き、海に入るには水が冷たくてためらわれた。結局僕が海水に足をつけたのは一回きりだった。後は海辺で小説などを読んだり子供たちと砂遊びをして過ごした。
 今日から仕事始め。まだ休暇中の教官や研究のデータ収集に出かけたり学会にでかけたりしている教官が多いためか、大学の建物の中はひっそりしている。
 電子メールを見ると、2週間見なかっただけで、500くらい未読のメールがたまっている。読むべきメールと読まなくていいメールとをより分けていくだけで、1時間かかってしまった。読むべきメールの一つに大学の印刷所からのメールがあった。
「1月中に印刷に回した物は1割引にしますので、早目に出してください」
 狩野さんには学生の出費を考えないと言って非難されたが、2月末から始まる新学期に備えて、1月中にテキストを作っておこう。本当なら、去年のテキストの日付を変えるだけで十分だと思うのだが、今年は何か新しいことにチャレンジしてみたいと思った時に思い出したのが、モニークのセミナーだった。モニークのやり方をまねするには、初めの出だしはこちらで与えなければいけないが、どんな話がいいのか決めかねている。日本に帰るたびに新しく出版された日本語のテキストを買ってくるので、僕の本棚は研究書よりも日本語のテキストで溢れている。本棚からいろんな読解のテキストを取り出して目を通したが、これといったものがない。「日本語中級読解ストラテジー」という本を開けたとき、ぱらっと中からA4サイズの紙が落ちてきた。なんだろうと机の上に落ちた紙を拾って読むと、大きな字で書かれている「ハンギング・ロックでのピクニック」と言う題が目に入った。そうだ、僕がオーストラリアに来て間もなく、オーストアリアの小説を学生に訳させようと思って選んだのが、「ハンギング・ロックでのピクニック」だった。これは以前学生たちに模範解答として自分が訳したものだった。これはいけるかもしれないと思った。
 「ハンギング・ロックでのピクニック」はハンギング・ロックを舞台にして描かれた百年前に起こった女子高生3人と女教師一人の失踪事件である。この小説では結局行方不明になった少女が一人見つかったが、その少女は何も覚えていないということで2人の少女と1人の女教師は行方不明になったままのミステリーで終わっている。 僕は自分の書いた『ハンギング・ロックのピクニック』の日本語の翻訳を読みなおした後、行方不明になった少女3人と先生一人に一体何が起こったのだろうかということを学生にグループプロジェクトで書かせることにした。この物語は映画で一躍有名になったのだが、英語の映画なので、日本語教育にはなんのメリットもないから、映画は見せないでおこうと思った。そう決めると狩野さんの意見も聞きたくなって、狩野さんの研究室に行くと、ドアはしまっていたが、電気はついていた。
ドアをノックすると、

「カムイン」と言う狩野さんの声が聞こえ、ドアを開けると、彼女は左手にサンドイッチを持ち、右手でコンピュータのキーを叩いているところだった。
「やあ、昼ごはんを食べながら、仕事かい」とからかうように言うと、狩野さんはちらっと僕のほうに目をやって、
「すぐすみますから、ちょっと待ってくださいね」と言って、すぐにまたコンピュータの画面に目を戻して、キーを打つ手を止めなかった。
「何しているんだ?」と僕がコンピュータの画面を覗き込むと、
「今書いている博士論文の第一章を学術誌に投稿しようと思っているんだけど、締切日が迫っているのよ」
「それは、大変だね」
狩野さんはスペースキーを押すと、一段落仕事が片付いたようで、初めてまともに僕の顔に目を向けて、
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」と神妙な顔をして頭を下げ、挨拶をした。よく考えたら、狩野さんと会うのは今年初めてだった。
「明けましておめでとう。クリスマスの休暇はどうだった?確かニュージーランドに行ったんだったよね」
僕は狩野さんの向かい側の椅子に腰掛けながら言った。
「そういう予定だったんですが、聞いてくださいよ。一緒にニュージーランドに行く予定だった友人、急に盲腸炎で入院することになってオーストラリアに来れなくなって、結局ニュージーランド行きはキャンセルしちゃったんです。そしたら博士論文の指導教官のリチャードが急に博士論文の第一章を学術誌に投稿したらどうかと言うものだから、休暇どころではありませんでしたよ。原稿の締切日が1月7日なんですもの」
「それは大変だね。でもよく頑張るなあ君は」と後藤が心底から感心して言うと
「私は後藤さんと違って5年の契約ですからね。また契約を延長してもらおうと思うと大変なんですから」と憂鬱そうな顔をして言った。
「それじゃあ、今時間をとらすの悪いね。急がないことだから、君の原稿が仕上がったところで、また出直すよ」
「余り時間をとらないことだったら、今でもいいですよ」と言って、食べかけのサンドイッチをちり紙の上に置いた。
「まあ、たいしたことじゃないんだけど、この間モニークの作文の授業の進め方のセミナーがあっただろ?あれをヒントにして僕も学生に作文を書かせてみようと思うんだけど、それに選んだのが、『ハンギング・ロックでのピクニック』なんだ」
「『ハンギング・ロック』って何ですか?」
「ああ、君はあの映画を見ていないんだね。ハンギング・ロックにピクニックに行った女子高生3人と女教師一人が行方不明になった物語なんだけど、その行方不明になった少女たちと女教師に何が起こったかを想像させて作文を書かせようと思うんだ」
「ミステリーですか?面白そうですね。いいんじゃないですか?」
「オーストラリア人の学生と留学生を組ませて二人組のプロジェクトにしようと思っているんだ。オーストラリア人の学生はこの話を知っている可能性があるから、全然知らない留学生より有利だ。でも、日本語の読解となると留学生のほうが有利になるから、協力させるのはどうかなって思うんだ」
「どんな物語か読んでみたいわ。日本語版があるんですか?」
「何年か前に学生たちに翻訳させてね、僕が模範解答として訳したものがあるんだけれど、それを最初に学生に読ませようと思っているんだ。それじゃあ、それを貸してあげるよ」
「読むにしても1月7日以降になりますが、それでもいいですか?」
「一月中にテキストを印刷所に回せばいいから、1月半ばまで読んでくれればそれでいいよ」
「はい。分かりました。それじゃあ、この原稿お預かりしておきます」と僕の差し出した原稿を恭しく受け取ると、狩野さんはそれを引き出しにしまいこんだ。

著作権所有者:久保田満里子

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ハンギングロック:後藤の失踪(8)

 聡子はここまで読むと眠気をもよおして、寝ることにした。時計の針は11時を指していた。
 今のところ、ハンギング・ロックに関する記述は全く出てこなかった。聡子は子供たちに父親の失踪を教えようかどうか迷ったが、警察の話では失踪かどうかさえも分からない状態だと言っていたのを思い出して、開けかけた口をつぐんだ。
 翌日、聡子はレイモンド刑事に連絡をとって何か進展があったか聞いたが、車はそのまま駐車場に停まったままだということだった。大学からも連絡がないことから、行方はしれないままだった。今日中に大学に現われないようだったら、明日からハンギング・ロック一帯を捜索することにしたということだった。聡子はまた子供が寝た後、後藤の書いた日記まがいのものを取り出した。きのう読んだところは11月29日だったが、次は12月5日の日付になっており、一週間記録が抜けていた。昔から後藤は熱中しやすく飽きやすい性格で、三日坊主の傾向があったが、段々記録を書いていく情熱がなくなってきたのだろうと、聡子は思った。

12月5日(月曜日)
 僕の研究テーマも決まらないまま、一週間はあっという間に過ぎた。
先週の金曜日が研究費申請の申し込みの締切日だったが、研究テーマは結局決まらずじまいだった。フレデリックに会うのが、気が重い。そう思っていると僕の研究室のドアをノックして、フレデリックが入ってきた。
「ケースケ。申請書はできたか?」と挨拶抜きで聞く。挨拶くらいしろっていうんだ。
「いやあ、間に合わなかったよ。悪い悪い」と言うと、フレデリックはしかめ面をして、「ケースケ、研究もしないで、どういうつもりなんだ」と非難するように聞く。
「僕も今研究テーマを絞っているところなんだ。でも、今年は無理だな。来年必ず出すよ」
僕は開き直ることにした。そんな僕を見てフレデリックもどう返答したものか困ったらしく
「じゃあ、来年はきっと出せよ」と捨て台詞のように言って、僕の研究室を出て行った。
 フレデリックを追い払ったものの、毎年、これじゃあ、たまんないなあと、思わずため息が出た。
 コンピュータで電子メールを読んでいると、狩野さんが姿を現した。
「後藤さん、来年、上級のクラスにどんな教科書を使うんですか?」
「それは、僕の作った上級日本語のテキストを使うよ。でも、どうしてそんなことに興味を持つの?初級の教科書にはいっぱいいいテキストがあるじゃないか」
「それは、そうなんだけど。でも、これで、一万円ってちょっと高いと思わない?」と言いながら、手に持っていた分厚いテキストとCDを見せてくれた。
「高いとは思うけど、学生が買うんだろ。僕達には関係ないじゃないか」
「後藤さんは学生の立場になって考えたことないんですか?」
 狩野さんはきっとした目で僕を見た。今日はどうも皆から非難を浴びる日のようである。
「そういえば、狩野さんはまだ院生だったよね。でもさ、日本のように授業料を払わなくてもいいんだから、ありがたく思わなくちゃ」
「それはそうですけど」
「ところで、狩野さんは夏休みにどこか遊びに行くの?」
「ええ、まだニュージーランドに行ったことがないので、ニュージーランドに行こうと思っているんです。飛行機代も安いし」
「ニュージーランドかあ。僕も実は10年オーストラリアにいて、一度もニュージーランドに行ったことがないんだ。一緒に行こうか」
 僕は勿論冗談のつもりだったのだが、狩野さんはぎょっとした顔をして
「いえ、日本から高校時代の友達が遊びに来るので、彼女と一緒に行くんです」と慌てて付け加えた。
 僕は狩野さんの反応が面白くて、思わず笑ってしまった。
「冗談だよ。冗談。僕は子供達を連れて近くの海の家に一週間行く予定なんだ。子持ちのバツイチ男には、ニュージーランドに遊びに行くなんて、金銭的余裕はないよ」と言ったら、狩野さんは初めてにこりとした。
 12月に成績を出したとたん、大学はもう休暇ムードが漂い始めた。学科のクリスマスパーティー、学部のクリスマスパーティーとやたらにパーティーが重なる。もっともパーティーと言っても、会議室に集まって、サンドイッチや寿司などをつまむだけの立食パーティーで1時間もすると皆三々五々にどこともなく消えてしまう。僕は、ワインがたらふく飲めることだけが楽しみで、招待を受けたパーティーは自慢じゃないが断ったことがない。これにガールフレンドでもできればいいのだが。そう言うと、日本人の友人からはガールフレンドにしたいような美人の学生はいないのかと言われる。そう言われるたびに「僕は商品には手をつけない主義で」と答えることにしている。ハーバード大学の有名な日本人の教授が女の大学院生にセクハラをしたというので首になった事件は、いつも僕の頭の片隅にある。だから女子学生が研究室に来た時は、部屋の戸を半分開けておくように心がけている。スケベ心をだすと、いつ足を引っ張られるかわからない。あんなに有名な学者がすぐにお払い箱になるくらいだから、僕なんて即座にくびになること間違いなしだ。

著作権所有者:久保田満里子

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ハンギングロック:後藤の失踪(7)

 僕は自分のカップに紅茶を入れた後、職員室のソファーに座ってカップ片手にコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるメアリーに話しかけた。
「メアリー、今何の研究しているの?」
 メアリーは、新聞から目を離して、僕を見上げた。
「今?オーストラリアの移民の英語習得について研究しているわ」
「データーはどうやって集めるの?」
「オーストラリアの統計局の出している移民に関する統計をデーターにしているの」
「え?じゃあ、人間が対象でないの?」
 僕は、やっと人間が対象でない研究をしている人に会って、思わずバンザイと叫びそうになった。
「そうだけど、どうして?」
「それじゃあ、その研究するには倫理委員会の許可をもらわなくてもいいんだね?」
「そうよ」
僕は嬉しさを隠しきれず、思わず身を乗り出して言った。
「それは、いいなあ。僕はもう倫理委員会に提出する書類を書くだけで閉口しているんだ。僕も政府から出している統計を使う研究に切り替えようかな」
メアリーは、笑いながら、言った。
「でも、ケースケ、統計、できるの?」
「統計できるって、どういう意味」
「だって、いろんな統計を使って処理しないと、自分のほしい情報は得られないわよ。たとえばカイ二乗検定なんか使って…」
 聞きなれない言葉を耳にして、僕は戸惑った。
「え、そうなのか。政府の出した統計をそのまま使って分析するんじゃないのか。僕、数学は弱いからなあ。統計って聞いただけで、びびっちゃうよ」
おじけついて言った。
「じゃあ、統計を使う研究はよしたほうがいいわよ。もっとも、基礎さえ勉強すれば、後はコンピュータのソフトウエアがやってくれるから、簡単なんだけどね」
「そうなの。でも、ちょっと僕にはできそうにもないなあ。それじゃあ、あきらめるとするか」
「そういえば、うちの大学の統計学科に頼めば、欲しいデータを出してくれるけど、お金を取られるわよ。どこかから研究助成金をもらえば、そこから払えばいいんだけれど」
「助成金かあ。今フレデリックに早く、研究費応募の申請書を出せってうるさく言われているんだけど、研究テーマも決まってなくて、今考えているところなんだよ。何か面白い研究テーマ、ない?」
「ケースケが、日本語を教えるとき、一番困っていることって、何?」
「それは、中国人とオーストラリア人の学生を一緒に教えなくちゃいけないことだよ。中国人は漢字ができるから読み書きが得意だけれど、発音に問題のある子が多くてね。それに比べてオーストラリア人の学生は、会話は上手だけれど、読み書きができないんだ」
「じゃあ、オーストラリア人の学生に漢字をどのように教えるかっていうことを研究テーマにしたら、いいじゃない」
メアリーは大学院生の相談を受けるように、てきぱきと研究課題を提案してくれた。
「その問題で悩んでいるのはケースケだけじゃないんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、それをテーマにして研究して、何か効果的な教授法が見つかれば、皆に感謝されるわよ」
「そうだね。そういうテーマだったら、この研究はオーストラリア社会にどのような貢献をもたらすかっていう欄に、何を書こうかって悩まなくてもすむね。ありがと、メアリー」
「どういたしまして」と言うと、メアリーはまた読みかけの新聞に目を戻した。
メアリーと話して、やる気を出して研究室に戻ったのもつかの間、僕はまたまた誰を研究対象にするかで、頭を抱えてしまった。
 僕が図書館から借りてきた本を自分の研究室で読んでいると、香川さんが入ってきた。
「後藤さん、いつ休暇を取るの?日本語に関する問い合わせがあった時対応できるように、いつも誰かが大学にいるように当番制を組みたいんだけど」
僕は弘と祐一との約束を思い出した。
「息子たちをクリスマス前後にモーニングトンの海辺の家に連れて行ってやるって約束しているんですが」
「そう。大学は12月24日から1月1日までクリスマスの休暇に入るから、それだったら大丈夫ね。私は日本にいる母の具合が良くないので、12月15日から1ヶ月日本に帰国することにしたわ」
そう言うと香川さんの顔は曇った。
「お母さん、何の病気なんですか?」
「ぼけてきちゃっているらしいの。兄の家族と住んでいるんだけど、兄嫁さん、母の世話で大変らしいから、この際少しでも親孝行してこようかなと思っているのよ。後藤さんのお母さんはお元気なの?」
「ええ。カラオケだハイキングだと、人生を謳歌していますよ」
「そう。それはいいわね。じゃあ、私がいない間よろしく」
「そういえば、新入生の歓迎会が1月にありますが、どうします?」
「ああ、その頃にはこちらに戻ってきているから大丈夫よ」
そういって出て行った香川さんの後姿は心なしか元気がなかった。
 

著作権所有者:久保田満里子

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ハンギングロック:後藤の失踪(6)

11月29日(火曜日)
 朝メールを見ると、モニークのセミナーが午後1時からあるから出席するようにと学科のマネージャー、マーガレットからメッセージが入っていた。
 会議室に行くと、10人ばかりの教官が集まっていた。10人と言うのはまだ多いほうで、時には司会者を除くと2名しかきていなかったというのも珍しくない。きのうのストライキ参加の一件から、狩野さんとは口をきいていなかったが、セミナーに行くと狩野さんが先に来ていた。目と目があってお互いにうなずいたが、特に言葉を交わさず、僕は会議室のドア近くに座っていた香川の隣に座った。
「香川さん。ウイットラム大学の選考、どうでしたか?」
「顔見知りの人も二人いたわよ。勿論誰が応募したかは、話せないけどね」
僕は一人で秘密を楽しんでいるような香川さんのニヤニヤする顔を見て、思わず笑った。
「いや、香川さんに聞かなくて、いずれどこかで情報が入ってきますよ。日本語教師の社会は狭いですからね」
「まあね。でも、日本からも応募した人がいて、びっくりしたわ」
「へえ、面接するためにわざわざ日本から来たんですか、その人?」
「まさか。電話で面接したのよ」
「そうですか。そうですよね。ウイットラム大学みたいな小さな大学で、面接だけのために航空運賃なんて出せないでしょうね。オーストラリアの大学はどこも資金繰りが苦しいから」
「そうね。アメリカとは随分違うわよね」
「アメリカの大学は出すんですか?」
「私の友達なんて面接に呼ばれただけで、夫婦の航空運賃を払ってくれたって、言ってたわ」
「へえ、アメリカの大学はお金があるんですねえ。羨ましいなあ」
「そうね。うちとは大違いね」
 1時になったところで、司会役のフランス語プログラムのジョンが立ったので、おしゃべりをしていた教官も皆黙ってジョンに目を向けた。
「皆さん、お集まりいただきましてありがとうございます。今日は、フランス語のクラスで使っている教授法を披露したいと思います。今日は、作文のクラスをいかにするかについてモニークが説明します。では、モニークさんどうぞ」
 モニークはいつも学科の会議で議事録の正確性の確認をするとき真っ先に手を挙げる積極的な女性だが小柄なほっそりした金髪の30代のフランス人で、少しフランス語訛りの英語を話す。フランス語を教えているオーストラリア人のクレアはモニークのフランス語訛りの英語はとっても可愛らしくてチャーミングだなんて言っていたことがあったが、僕もフランス語の響きはきれいだと思っているせいか、モニークの鼻にかかったような訛りのある英語が好きだ。
 モニークはパワーポイントでスライドを見せながら、説明した。パワーポイントを使うのはオーストラリアの大学では当たり前のことなので、OHPしか使えない中国語のチェン教授は、同僚からも学生からも古代人のように思われている。
「皆さん、学生に作文を書かせるための動機付けがとても難しいと思いますが、学生たちに興味を持たせるために、私はこんな工夫をしてみました」
次に出されたスクリーンには、
「小説を読んで、作文を書く」
と書かれていた。
 結局、モニークの説明では、フランス語で物語を途中まで読ませて、その続きをグループに分かれて書かせるというものだった。そのメリットとして、創造性を育てる、物語を読むことによって読解力もつき、物語に出てきた単語を覚えることによって作文に使う単語を事前に学ぶことができるということだった。
 セミナーが終わって、香川と一緒にセミナーの部屋を出ようとしたら、狩野さんに後ろから声をかけられた。
「香川さん、後藤さん、今日のセミナー面白かったですね」
「そうだね。僕も今度小説でも読ませて、作文を書かせようかな」
「後藤さんは上級生担当だから、そんなことができますよね。初級ではちょっと無理ですよね」
「そうだね」
「香川さんはどう思われましたか?」
「中級にもちょっと難しいわね。小説を読ませるだけで、苦労しているわ。オーストラリア人の学生は皆話すのは得意なんだけどね、読み書きとなるとアレルギーの子が多いのよ」
「確かに英語話者には漢字って、難しいですからね」
「そういえば、この間作文を書かせたら、何が書いてあるのかさっぱり分からないのがあったのよ。こっちから読み、あっちから読みと、色々な方角から読んだら、その子、左下から上に向かって書いていたのよ」
「ええ!信じられない」狩野さんが驚きの声をあげた。
「そう、私も教師生活30年になるけれど、あんな書き方する学生に会ったのは、初めてだったわ」
「香川さん。原稿用紙の使い方、ちゃんと教えたんですか?」
香川さんを揶揄するように言ったら、睨まれた。
「勿論、教えているわよ」
香川さんと別れた後、狩野さんは真面目な顔をして僕を戒めた。
「後藤さん。あんまり人のプライドを傷つけるようなことは言わない方がいいと思うわ」
「やあ、ご忠告ありがとう。ついついね、言っちゃうんだよ。君もまだストライキのことで怒ってるの?」
「まあ、あまりいい気はしなかったけれど、後藤さんみたいな人もいるんだなと、あまり気にしない事にしたわ」
「それが、いいよ。怒るとしわができるからさ」
「それが余計なことなのよ」
 また狩野さんを怒らせたようだ。
「ところで、博士論文はすすんでいるの?」
「それは聞いて欲しくないな。この間香川さんから博士論文って書き上げたと思ってからまる一年かかると言われたけれど、本当にそうね。パートだから6年で書けばいいなんて悠長に構えていたんだけれど、まだ参考文献を読んでいる段階だから、頑張らなくっちゃ。そういう後藤さんはどんな研究しているの?」
「それは聞いてほしくないなあ」と思わず言った後、僕達は顔を見合わせて笑った。
「きのうフレデリックから、研究費の申請書を来週末までに書き上げろって言われて、研究テーマを今考え中なんだよ」
「羨ましいなあ。好きな研究ができるっていうの」
「君だって、好きなテーマで博士論文を書いているんだろ?」
「興味があったのは最初の1年だけだったわ。今はもう段々情熱を失いつつあるわ」
「それは、分かるよ。僕だって、もうアスペクトの研究なんてたくさんだって思うもの。で、君は、他にもやりたい研究があるみたいだけど、どんな研究をしたいの?」
「アイデンティティなんか興味があるわ」
「アイデンティティ?」
「そう。学生の中には、敬語なんか使いたくないっていう子がいるじゃない?」
「それと、アイデンティティと、どういう関係があるんだ?」
「敬語を使うというのは、上下関係を認めることになるから、そんなことを認めると自分のオーストラリア人としてのアイデンティティが失われると思うんじゃないかしら」
「なるほどね」
「女言葉を使うことにも抵抗を示す女子学生もいるわよね。これも、おんなじことだと思うわ」
「アイデンティティか」僕は独り言のようにつぶやいた。
狩野さんと別れた後は、また図書館で借りてきた本を読んだ。1時間も読んでいると、目が痛くなる。一休憩してお茶でも飲もうと職員室に行くと、第二言語習得を専門にするイタリア語を教えているメアリーがいた。メアリーのやっている研究を聞いて参考にさせてもらおうかと、思い立った。メアリーは背が高くてがっちりした体型をしており眉の太いいかにもごつそうな感じの人で一見とっつきにくそうだが、実際に話すと気さくな人だということを、つい最近電車の中で会って立ち話をして知った。

著作権所有者:久保田満里子
 

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ハンギングロック:後藤の失踪(5)

「後藤さん、来週の組合のストライキ、参加されます?」
「何のストライキ?」
「え、後藤さん、組合員じゃないんですか?」
狩野さんは驚いたように、後藤の顔をまじまじと見た。
「組合に入ってはいるけれど…」
「え、組合員なのに知らないんですか?社会学科のマクミラン教授が、うちの大学は留学生が落第点をとってもパスさせると言ったものだから、大学側から大学の名誉を傷つける発言をしたという理由でクビにされた事件があったじゃないですか」
「そういえば、そういう事件があったねえ」
メンジーズ大学の学生の20パーセントは留学生、特に中国とインドからの留学生が圧倒的に多い。オーストラリアの44ある大学のうち43校が公立の大学で、勿論メンジーズ大学も公立の大学である。公立大学は主に連邦政府からの資金で運営しているのだが、年々連邦政府からの資金が減らされていく。そういった状況なので、留学生から取る学費が収入源として重要性を帯びてきた。だからどの大学も留学生を勧誘するために、留学生の入学条件を甘くしたり、採点も甘くして簡単にパスさせるというので、社会問題になっていたのだ。
「組合はマクミラン教授を解雇するのは研究者の発言の自由を侵害するものだから、即刻マクミラン教授解雇を取り消せと要求しているんですよ。それが受け入れられなければ、ストライキをするって」
「僕は、あんまり政治的なことには興味がなくってねえ」
僕の気の乗らない返事に狩野さんはあきれたように言った。
「後藤さん。これ、我々の権利を侵害するものだと思いませんか?」
「マクミラン教授もわざわざ新聞に投書して、自分の大学の恥をさらすようなことをしなければいいんだよ。それに我々がストライキしたからって、我々の給料が減らされるだけで、大学側はそんなもの、何とも思っていないよ。だって考えてみろよ。授業のある時はともかく、学生の休みに入った今、僕達が一日大学に出てこないからって大学側が著しい損害をこうむるとは思えないよ。それにだ。授業がある時にストライキをしたとしてもだ、困るのは学生だけだよ。つまり我々は無力だってこと」
「後藤さんってすごく無気力な人なんですね」狩野はかっかとしながら言った。
「いや、無気力というより、現実主義者だといって欲しいな」
「もう、知りません」

 狩野はこれ以上僕と話しても時間の無駄だという風にぷんぷんしながら、僕の研究室を出て行った。
「やれやれ。狩野さんはいい人だけど、理想主義者で、すぐかっかと来るんだからかなわないな」と僕はぶつぶつ独り言を言いながら、コンピュータに向かった。そして、インターネットで図書館にある第二言語習得の本のカタログを調べて借りたい本のリストを作った後、図書館に行った。図書館は僕の研究室のあるビルから、キャンパスを横切ったところにある。学期中は学生で溢れ返っているキャンパスも、学生の夏休みに突入したためか、閑散としていた。図書館はエアコンが利き過ぎだと思えるくらい、夏だというのに肌寒かった。僕は本棚を眺めながら、日本語の本なら背表紙を見てすぐ本の題が分かるのに、英語の本だと縦書きが出来ないから、首を曲げて読まなくてはいけないのが厄介だと思った。日本語の本が収集されている所ではカタログの番号に頼らなくてもすぐに本を探せるのに、英語の本はカタログの番号に頼らなければいけない。一時間かけてやっとめぼしい本を5冊借りて研究室に戻ってくると、研究室の前で人影が見えた。僕の研究室の前は逆光になっていて、誰なのか見分けにくい。近づくと、去年教えた学生のキーランなのが分かった。
「おう、元気か」
 キーランは日本語の成績は余りよくなかったが、ひょうきん者でクラスを笑わせることが多く、僕のお気に入りの学生だった。
「先生、お久しぶりです」と言って、キーランは小柄な背中を曲げて、丁寧にお辞儀をした。
「まあ、入ってくれよ」と僕はキーランに笑顔を向けて、研究室に招き入れた。
「確か去年卒業したんだったよね。卒業した後何していたんだ?」と聞くと
「今年の初めに日本に行って、北海道のニセコのスキーリゾートで働いていました」
「ああ、そうだったのか。日本はどうだった?」
「楽しかったですよ。日本人のガールフレンドもできたし」
「そうか、それで、日本語が上手になったんだな」
「それ、どういう意味ですか?」
「いや、ニセコって言うとオーストラリアからの観光客が多いところだろ?外人相手に仕事をしていると普通日本語って上達しないのにさ、上手になっているからびっくりしたんだよ。特に、お辞儀の仕方がうまくなっているじゃないか」
「それって、ほめられているのかなあ」とキーランは笑った。
「勿論、褒めてんだよ。今日は何か用事で来たの?」
「いえ、クリスマスの休暇で日本から帰ってきたので、先生にご挨拶しようと思って」
「嬉しいねえ。昔の学生に思い出してもらうだけでも教師冥利につきるっていうものだ」
「冥利?」
「ああ、ごめんごめん。ちょっと難しい日本語を使っちゃったな。先生をしていてこれほどうれしいことはないっていう意味だよ」
「先生は、お休みに何をされるんですか?」
「そう言われるとねえ、あんまりいい気はしないなあ。大学の先生ってさ、高校の先生と違って学生のお休みのときは休みって言うわけにはいかないんだよ。研究しなければいけないからねえ」
「そうですか。失礼しました」
「それで、いつまた日本に行くの?」
「12月30日に帰りたいと思っています」
「ほらほら、『帰りたい』じゃなくて、『戻りたい』だろ。キーランは日本人じゃないんだからさあ。ちゃんと教えただろ?」
「先生って相変わらず厳しいんですね」とキーランは苦笑いした。
その日は僕は、結局キーランとおしゃべりした後、図書館で借りた本を20ページ読んだが、新しい研究テーマもきまらないまま、家に帰った。その週は、研究テーマを決めるために悶々とした一週間となった。


著作権所有者:久保田満里子

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