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ハンギングロック:後藤の失踪(8)

 聡子はここまで読むと眠気をもよおして、寝ることにした。時計の針は11時を指していた。
 今のところ、ハンギング・ロックに関する記述は全く出てこなかった。聡子は子供たちに父親の失踪を教えようかどうか迷ったが、警察の話では失踪かどうかさえも分からない状態だと言っていたのを思い出して、開けかけた口をつぐんだ。
 翌日、聡子はレイモンド刑事に連絡をとって何か進展があったか聞いたが、車はそのまま駐車場に停まったままだということだった。大学からも連絡がないことから、行方はしれないままだった。今日中に大学に現われないようだったら、明日からハンギング・ロック一帯を捜索することにしたということだった。聡子はまた子供が寝た後、後藤の書いた日記まがいのものを取り出した。きのう読んだところは11月29日だったが、次は12月5日の日付になっており、一週間記録が抜けていた。昔から後藤は熱中しやすく飽きやすい性格で、三日坊主の傾向があったが、段々記録を書いていく情熱がなくなってきたのだろうと、聡子は思った。

12月5日(月曜日)
 僕の研究テーマも決まらないまま、一週間はあっという間に過ぎた。
先週の金曜日が研究費申請の申し込みの締切日だったが、研究テーマは結局決まらずじまいだった。フレデリックに会うのが、気が重い。そう思っていると僕の研究室のドアをノックして、フレデリックが入ってきた。
「ケースケ。申請書はできたか?」と挨拶抜きで聞く。挨拶くらいしろっていうんだ。
「いやあ、間に合わなかったよ。悪い悪い」と言うと、フレデリックはしかめ面をして、「ケースケ、研究もしないで、どういうつもりなんだ」と非難するように聞く。
「僕も今研究テーマを絞っているところなんだ。でも、今年は無理だな。来年必ず出すよ」
僕は開き直ることにした。そんな僕を見てフレデリックもどう返答したものか困ったらしく
「じゃあ、来年はきっと出せよ」と捨て台詞のように言って、僕の研究室を出て行った。
 フレデリックを追い払ったものの、毎年、これじゃあ、たまんないなあと、思わずため息が出た。
 コンピュータで電子メールを読んでいると、狩野さんが姿を現した。
「後藤さん、来年、上級のクラスにどんな教科書を使うんですか?」
「それは、僕の作った上級日本語のテキストを使うよ。でも、どうしてそんなことに興味を持つの?初級の教科書にはいっぱいいいテキストがあるじゃないか」
「それは、そうなんだけど。でも、これで、一万円ってちょっと高いと思わない?」と言いながら、手に持っていた分厚いテキストとCDを見せてくれた。
「高いとは思うけど、学生が買うんだろ。僕達には関係ないじゃないか」
「後藤さんは学生の立場になって考えたことないんですか?」
 狩野さんはきっとした目で僕を見た。今日はどうも皆から非難を浴びる日のようである。
「そういえば、狩野さんはまだ院生だったよね。でもさ、日本のように授業料を払わなくてもいいんだから、ありがたく思わなくちゃ」
「それはそうですけど」
「ところで、狩野さんは夏休みにどこか遊びに行くの?」
「ええ、まだニュージーランドに行ったことがないので、ニュージーランドに行こうと思っているんです。飛行機代も安いし」
「ニュージーランドかあ。僕も実は10年オーストラリアにいて、一度もニュージーランドに行ったことがないんだ。一緒に行こうか」
 僕は勿論冗談のつもりだったのだが、狩野さんはぎょっとした顔をして
「いえ、日本から高校時代の友達が遊びに来るので、彼女と一緒に行くんです」と慌てて付け加えた。
 僕は狩野さんの反応が面白くて、思わず笑ってしまった。
「冗談だよ。冗談。僕は子供達を連れて近くの海の家に一週間行く予定なんだ。子持ちのバツイチ男には、ニュージーランドに遊びに行くなんて、金銭的余裕はないよ」と言ったら、狩野さんは初めてにこりとした。
 12月に成績を出したとたん、大学はもう休暇ムードが漂い始めた。学科のクリスマスパーティー、学部のクリスマスパーティーとやたらにパーティーが重なる。もっともパーティーと言っても、会議室に集まって、サンドイッチや寿司などをつまむだけの立食パーティーで1時間もすると皆三々五々にどこともなく消えてしまう。僕は、ワインがたらふく飲めることだけが楽しみで、招待を受けたパーティーは自慢じゃないが断ったことがない。これにガールフレンドでもできればいいのだが。そう言うと、日本人の友人からはガールフレンドにしたいような美人の学生はいないのかと言われる。そう言われるたびに「僕は商品には手をつけない主義で」と答えることにしている。ハーバード大学の有名な日本人の教授が女の大学院生にセクハラをしたというので首になった事件は、いつも僕の頭の片隅にある。だから女子学生が研究室に来た時は、部屋の戸を半分開けておくように心がけている。スケベ心をだすと、いつ足を引っ張られるかわからない。あんなに有名な学者がすぐにお払い箱になるくらいだから、僕なんて即座にくびになること間違いなしだ。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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