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川島由紀恵(仮名)の話(2)

オーストラリアでイタリア人の男性と出会い結婚して、男の子が生まれたのでカンタスをやめ、その後オーストラリアの国内航空会社で地上勤務についた。ここでは英語を充分習うことができ、英語の上達が目覚ましかった。
しかし、日本語で日本の会社の仕事を習いたかったため、そこをやめた。そして運よく日本人の重役秘書を募集していた会社・TOKYO・MARINE Australia
日本の東京海上火災保険株式会社【現在の東京海上日動火災保険株式会社】に応募して、採用された。これも英語での面接にパスして得た仕事だった。東大出のバリバリ仕事ができる人が支店長だった。まず支店長から日本の商業用手紙の書き方を習った。保険は法律と深く関係していて、クレーム対応の時など、英国人の社員が書いた理路整然とした英文手紙をタイプする度に、新しいことが学べるのが楽しかった。大体3年か4年ごとに支店長が交代し、新しい支店長が日本から赴任してきた。二人目の上司は京都大学の秀才だった。さすが東京海上、同僚も、皆、仕事のできる人たちばかりだった。 損害保険のことを 習うことは  、世の中のことを習うことだと思った。色んなことを教わって、やりがいはあったけれど、会社に給料の値上げを要求しても、受け入れてくれなかったので、日系証券会社の日興証券コーヂアル、【現在のSMBC日興証券株式会社】に転職した。ここはオーストラリアの会社の株を主に日本の年金を扱う生命保険会社に売るのを一つの目的としていた会社だった。私の仕事は具体的に言うと、オーストラリアの会社の内容詳細を日本語に訳して、年金を扱う日本の機関投資会社にセールスするもので、刺激のある毎日を送った。この仕事を通して、投資の対象になる大きな会社、特にオーストラリアの鉱山資源会社や、豪州銀行会社などの内容とそれらの外国との繋がりなどの知識を得た。交渉役を任され、エグゼクティブ・セクレタリーのタイトルをいただいた。そこに8年勤めた。その時とてもいい給料をもらった。でもバブルがはじけて日本は不景気になり、日興証券はオーストラリアを引き上げたので、仕事がなくなった。その頃、日本の証券会社がメルボルンに3社あったけど、皆引き上げてしまった。
会社勤めで社会のことはよく分かったし、子供を持って、子供の学友の父兄たちと友達になって学校のシステムなども分かったし、視野が広がったと思う。

ちょさく

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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