自分史(1)
更新日: 2025-12-07
工藤幸恵は、60歳になったのを機会に、自分史を書こうと思い立った。この60年間、振り返ってみれば、いろんなことがあった。オーストラリア人のフランクと日本で出会い、結婚。フランクに連れられてメルボルンに来たのは、28歳の時だった。それから娘が生まれたが、ある日忽然とフランクが消えてしまった。ある日、近所の友達の家から帰ってみると、彼の衣類も靴も、車と共になくなっていた。すぐに警察に捜索を頼み、心当たりを必死に探したが、見つからなかった。彼の持ち物もなくなっていることから、自分の意思で家を出たことは確かだが、その理由は、幸恵には見当もつかなかった。その後、娘一人を抱えて、生きていかなければいけないはめに陥ったが、英語がたいして得意でない幸恵が働けるところは限られており、結局工場で働いた。朝6時半から午後3時半まで、果物をより分ける単調な仕事だった。工場で働いている人は、圧倒的に移民が多かったが、日本人は幸恵一人だった。毎日つらいと思いながら働いていた時、5人の工場の仲間と一緒に買ったタツロットが当たった。やっと自分にも運が向いてきたと大喜びしたのもつかの間で、賞金の分配で仲間割れした。裁判沙汰まで起こし、やっと手に入れたお金は5万ドル。大半は、裁判にかかった費用として、弁護士に取られてしまった。そんなことがあったため、工場をやめてしまった。そのあとは、お土産物屋の店員と、日本レストランのウエートレスの掛け持ちをして働いた。ウエートレスをしていた時に、今の夫、ロビーと会い、再婚した時は45歳になっていた。ロビーは、デパートのセールスマネージャーで、それなりの給料をもらっていたので、再婚して始めてお金に苦労をする生活とおさらばをした。娘も大学を卒業して独立し、結婚した。60歳となった今、やっと心のゆとりもできたのだ。浮き沈みの多かった人生は、きっと他人にも興味を持って読んでもらえるだろう。それに学校では作文が得意で、いつも国語教師から文才があるとほめられていたので、書くことには自信があった。自分史を仕上げるのに、1ヶ月とかからなかった。今までたまっていた思いが、火山が爆発するように次から次へとあふれ出てきたからだ。家事をしていない時は、台所のテーブルに座って、コンピューターを打ち続けた。A4の用紙150ページに渡る自分史を書き上げた後、幸恵は、達成感に酔いしれた。日本にいる友人に読んでもらったら、「こんな経験、日本ではできないわ。とてもおもしろかったわ。それに、文章もとても簡潔で読みやすくて、夢中になって読んだわ」と、絶賛された。「自費出版したら?」と、その友達から勧められ、その気になって、ウエブサイトで、自費出版してくれそうな会社を探した。
ちょさくけ







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