幽霊(最終回)
更新日: 2026-03-01
翌朝、モーテルの受付で支払いをしながら、ジェフリーは受付の40代くらいの女性に、冗談交じりに、「いやあ、昨夜は幽霊が出て、困ったよ」と言った。すると、その受付の女性の顔にさっと緊張が横切ったのを、晴美は見逃さなかった。「あの部屋、幽霊が出るんですよね」と晴美はかまをかけてみた。
受付の女は、しぶしぶと頷いた。「確かに、時々聞きますね。あの部屋に幽霊が出るって言うのは。その幽霊、小柄な若い女じゃなかったですか?」
晴美は勝ち誇ったようにジェフリーの顔を見ながら、「ね、やっぱり。私の言った通りでしょ?」と言い、受付の女に目を移して、
「あの幽霊、もしかしたら、あの部屋で自殺した人なんじゃないでしょうねえ」と言うと、
「ええ。実は、あの部屋で若い女が自殺をしたんですよ。その女性、ボーイフレンドと一緒に泊まったんですがね、朝ボーイフレンドは女を残して、一人でチェックアウトして出て行っちゃったんですよね。その女性がチェックアウトの時間になっても出てこないので、部屋をノックしたんですが、返事がないんです。そこで合鍵で開けてみると、女が首を吊って死んでいたんですよ。その時は、女のボーイフレンドが殺したんじゃないかって、警察が捜査に乗り出したんですが、そのボーイフレンドが名乗りを上げ、痴話げんかをしたので、女を残してチェックアウトをしたんだと言い張ったんです。結局、そのボーイフレンドは身の潔白が証明されましたけれどね」と、受付の女は一旦しゃべり始めると、止まらなかった。
「どうして身の潔白が証明されたんですか?遺書でも出て来たんですか?」
「遺書はなかったけれど、ボーイフレンドがチェックアウトした後の時間に、その女性、お母さんに電話しているんですよね。だから、ボーイフレンドがチェックアウトした時間にはまだその女性は生きていたと言うことで、自殺と断定されたんです。それに、お母さんに『もう生きていくのが嫌になった』と悲観的なことを言っていたそうだし」
「そうだったんですか」と晴美は納得し、モーテルを出発したあと、車の中で、
「ね、私が見たのは幽霊だったのよ。信じるでしょ?」と言うと、それでも納得がいかない様子だったジェフリーも「まあ、幽霊だったかもしれないな」と晴美の主張をしぶしぶ認めた。
その後からだった。晴美が、幽霊を頻繁に見るようになったのは。一番怖かったのは、盲腸炎を患って、一日入院した時だった。夜暗くなって、物音のしなくなった病院は、それだけでも不気味だが、その夜出たのである。男の幽霊が。
夜中に、何やら顔に人の息遣いを感じ、目を開けた晴美の目の前で、しわくちゃもぐれの白髪の老人がニヤッと笑い、「良く来たなあ」と、おどろおどろしい声で言った時は、腰が抜けてしまった。怖くて、蒲団を頭からかぶせて、蒲団の中でぶるぶる震えた。この晩は、眠るどころではなかった。それでも明け方うつらうつらしたようだ。
「晴美さん、朝ご飯ですよ」と言う看護師の声で目覚めて、おそるおそる蒲団から首を出した晴美の目に、明るい朝の陽ざしが飛び込んできた。すると、昨夜聞こえたあの幽霊の声は、夢だったのではないかと思える。でも、晴美は看護師に聞かずにはおれなかった。
「あのう、この病室で、亡くなった老人はいませんでしたか?」
すると、看護師は驚いたように「じゃあ、また出たんですか?」と聞いた。
「え、よく出る幽霊なんですか?」
「よくは出ないけれど、時々老人の幽霊がおどろおどろしい声で『良く来たな』と言うので、震えあがって、病室を変えてほしいと言う患者さんもいらっしゃいますから」とこの看護師は正直に話してくれた。
「やっぱり。その方は、ここで亡くなられたんですか?」
「ええ、末期がんで、手の打ちようがなかったんですよ。それで、痛みに苦しみながら亡くなられたんです」
晴美はその日は退院することになっていたので、ほっとした。毎晩この幽霊に出られて、足を引っ張られてあの世に行ってしまったなんてことは、御免蒙りたい。
晴美は、この恐怖を親友の公美子に話したが、公美子は幽霊が見えないタイプの人間なので、晴美には同情しても、それじゃあ、幽霊をどうしたら見なくなれるのかと言うアドバイスはできない。
幽霊に悩まされながらも5年過ごしたが、ある日ジェフリーが心臓発作を起こして、あっけなくあの世に行ってしまった。悲嘆にくれた晴美は、それでも葬儀だけはジェフリーのためにちゃんとしようと気丈に構えていたが、葬儀が終わった晩、どっと疲れが出て、誰もいない冷え切った家に帰るなり、ベッドに崩れ落ちるように身を投げ出した。すると、しばらくたって、ふと部屋の片隅に誰かがいる気配を感じた。ぎょっとなって、気配のする方を見た。そこには、ぼんやり男の姿が見えた。「もしかしたら、ジェフリー?」とその男に声をかけてみた。
「そうだよ、晴美」
晴美は久しぶりに聞くジェフリーの声に興奮して、「ジェフリーなのね。こっちにいらっしゃいよ」と言うと、ジェフリーは、「ここでいいよ。晴美が一人でオーストラリアで生きていけるかどうか心配で、この世に残ることにしたんだよ」
「え、自分の意志でこの世に残ることができるの?」
「うん。僕がいつまでも君を見守ってあげるよ」
一人ぼっちになったと思っていた晴美は、ジェフリーの言葉に自然と涙がぽろぽろと出てきた。そしてジェフリーに近づいて、彼の体を抱きしめようとしたが、まるで空気をつかむようで、ジェフリーの体は実態がなかった。
ジェフリーをもう抱きしめられないのは悲しかったけれど、ジェフリーに言わずにはいられなかった。
「私は幽霊なんて見えなければいいって何度も思ったけれど、見えることでいいこともあるのね。ありがとう。死んでも私のそばにいてくれて」
ジェフリーのにっこり笑った顔を見て、晴美は「きっと私は大丈夫」とつぶやくと、生きる力が湧いてきた。
ちょさく






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