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ウルルの石 第三話 レイチェル・アンダーソンの話(2)

 キャラバンパークに着くと事務所に向かって一目散に走りました。幸い事務所には40歳ぐらいの男がコーヒーを飲んでいるのが見えました。「夫がワニに襲われたの、助けて!」と自分では言ったつもりですが、事務の人は当惑した面持ちで「落ち着いて、落ち着いて。そんなにヒステリックに言われては、何を言っているのか分からないよ」と言うので、深呼吸をして、もう一度言いました。「夫がワニに襲われたの」それを聞くと事務所の人の顔色が変わり「どこなんだ?」と聞きました。私たちは地図を見てその場所に行ったわけではないので、私が案内しなければ分からないことに気づき、事務所の人が救助隊に連絡して、救助隊が来るのを待って、案内することになりました。後で聞いたところによると救助隊は10分くらいで来たと言うのですが、その10分は私にとっては永遠に感じられました。待っている間、イライラしながらもウロウロする以外私には何もできませんでした。やっと4人の頑強そうな男からなる救助隊が来てくれ、私の案内で、事故現場に着いた時は、ジェームズはおろかワニの姿さえ見当たりませんでした。救助隊がボートを漕いでジェームズのいた場所に行きましたが、水面が血に染まっているだけでした。もうこのときにはジェームズが生きている可能性はほとんどないことは誰の目にも明らかでした。それから夜を徹して救助隊がジェームズの死体の捜索にあたってくれましたが、結局死体さえみつかりませんでした。

 それからのことは夢の中の出来事のようでした。7日間続いた捜索も虚しく、ジェームスの死体は見つかりませんでした。8日目には捜索は打ち切られ、救助隊の人たちは気の毒そうに私に言いました。「お気の毒ですが、きっとお宅のご主人はきっとワニに食べられてしまったのでしょう。だから死体を取り戻すことは不可能だと思います」
私は泣く泣くダーウィンに行き、そこでキャラバンとジープを売って、ダーウィンから飛行機でシドニーに帰りました。そして死体のないままお葬式をするはめになりました。私はその間毎晩悪夢にうなされました。ジェームズのあの最後の悲鳴が耳から離れないのです。助けようにも助けてあげられなかったことでも自責の念にさいなまされ、夜中に自分の叫び声で目が覚めることも一度や二度ではありませんでした。

 そんなおり、外務省の人からの訪問を受けました。ビクターと言う紺色のスーツを身に着けた30代のその男は「息子さんにクリスさんていらっしゃいましたよね」と言うので、「そうです。でもこの10年くらいうちには寄り付きませんから、今どこにいるかも知らないんですよ。先日夫が亡くなったのですが、お葬式のことを知らせようにも、居所が分からなくて、夫が死んだことさえ知らせていないくらいですから」と言うと、
「クリスさんは今シンガポールにいますよ」とビクターは言いました。
「シンガポール?シンガポールで一体何をしているんでしょうか?」
どうして外務省の人がわざわざそんなことを私に伝えに来たのか、分かりませんでした。

「今病院に入っていて、生死の境をさまよっていますよ」と言う答えが返ってきて、私を驚かせました。
「どんな病気にかかったのですか?それとも何か事故でもあったのでしょうか?」と聞くと、
ビクターは言いにくそうに、
「実はですね、クリスさんは麻薬をシンガポールからオーストラリアに持ち出そうとして、コンドームに入れて、飲み込んでいたのです。それも一つじゃなくて5つもです。その袋の一つが胃袋の中で破れて麻薬が体内に回り、麻薬の中毒症状を引き起こしたのです。ちょうど税関のところで、突然顔がまっさおになって倒れたので、救急車で病院に運んで検査した結果、麻薬の中毒症状だと分かったのです」と言いました。
クリスは高校時代からマリファナを吸っていたのは知っていましたが、麻薬の運び屋になっているとは思いもしませんでした。

「麻薬を飲み込むなんて、なんて無謀なことを、、」
「最近は麻薬の取調べが厳しくなっていますからね、スーツケースに隠したり、体に巻きつけたりするのが今まで良く使われる手段だったのですが、そうすると警察犬が匂いをかいですぐに捕まるので、こんな手を考えたんでしょうね。麻薬を飲み込まれると、いかに嗅覚が発達した警察犬でもかぎ分けられないんですよ。だから、時折こういった無謀な方法を取る運び屋もいるんですよ」とビクターは言いました。そして
「シンガポールに行かれるようでしたら、パスポートや航空券の手配はしますが、いらっしゃいますか?もっとも経費は払っていただくことになりますが」と言ってくれました。

「勿論です。シンガポールにはいつ行けるのですか?」
「明日には、航空券もパスポートも用意できると思います。ですから、明日の夕方には出発できるように支度をしておいてください」
ビクターを玄関まで見送っていくと、玄関のドアを開けたところでビクターは振り返り、言い足しました。
「もう一つ大事なことを言い忘れるところでした。シンガポールは麻薬の取締りが厳しく、たとえ少量の麻薬でも売買を目的とした麻薬を所持している場合は、絞首刑にされます」
「絞首刑?」



次回に続く.....

著作権所有者・久保田満里子

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ウルルの石 第三話 レイチェル・アンダーソンの話(1)


第三話レイチェル・アンダーソンの話


 私は21歳で結婚し、25歳でひとり息子のクリスをもうけましたが、クリスが生まれた後、26歳で離婚してしまいました。クリスの父親は普段はやさしい人なのにアルコールが入るといっぺんに人が変わり暴力をふるうのです。クリスが生まれてから暴力の回数が増え、耐えられなくなったからです。その一年後、ジェームズと出会い、再婚しました。私はジェームズに一目惚れし結婚生活は楽しいものでしたが、一つだけ頭痛の種がありました。それは、ジェームズとクリスとはおりあいが悪くて、二人の間で喧嘩が絶えなかったことです。家庭がおもしろくなかったせいか、クリスは万引きをしたり、クラスメイトをいじめたりと問題ばかり起こし、ますますジェームズに疎まれる存在となりました。結局クリスは高校を中退して家を出て行き、家には寄り付かなくなりました。まあ、元気ならそれでいいと思い、クリスとは疎遠になりましたが、私はあまり気にしませんでした。クリスも自分の人生を好きなように歩めばいいと思ったからです。
ジェームスが去年の12月に55歳になったのを機に会社を退職したので、私達は念願のオーストラリア一周の旅に出ました。一年かけてゆっくり回るつもりで、キャラバンいわゆるキャンピングカーを買いました。キャラバンには小さな台所と食事をするためのテーブルと4人は座れる椅子、そしてベッドがついていました。テレビや電子レンジなどの文明の利器もついて、700万円と、お値段は高めでしたが、また売れば500万円は戻ってくるというセールスマンの言葉を信じて、思い切って退職金の一部をはたいて、買ったのです。

家を人に貸して、その家賃を旅行の費用にあてることにしました。シドニーを出たのは、今年の一月です。キャラバンをジープでひっぱって、最初に留まったキャラバンパークには、私たちのように退職後気ままな旅に出たという熟年夫婦が何組かいて、すぐに顔見知りになりました。キャラバンパークではトイレやシャワー、そして台所と洗濯場など、他の泊り客と共同のものが多く、挨拶をするのが当たり前の世界なので、知り合いができやすいのです。最初の夜は台所で知り合った夫婦、スーザンとケリーに夕食後ワインを飲みに来ないかと誘われていくと、キャラバンのそばに椅子を出し、チーズとクラッカーを出して歓待してくれました。

「今まで、どこを見て回った?」と聞くスーザンに
「私たち、シドニーを出発したばかりで、まだどこに行くかも決めていないの」と言うと、スーザンは
「私たち、もう3年旅をしていてオーストラリア中回ったけれど、一番のお勧めはウルルね。ウルルには絶対行くべきよ。雄大な景色で素晴らしいところよ」
そのスーザンの言葉に影響を受け、私たちはそれからすぐにウルルを目指してキャラバンを走らせました。

ウルルまでは、赤い土の大地の中をまっすぐに走る道路が行けども行けども続いていました。昼間はカンカン照りで暑さに圧倒されましたが、日が翳ると急に冷え、夜は薄いセーターがいるほど寒くなり、典型的な内陸性気候でした。目に映るのは水平線に山一つない単調な風景の連続でうんざりしかけた3日目に、私たちはウルルを見ることができたのです。スーザンの言った通り、その雄大さは素晴らしいものでした。3日も走ったかいがありました。照りつける日の中をジェームズと二人でウルルに登りました。上るときは岩に当たって照り返した日の熱で、暑くてたまりませんでしたが、頂上に着くと風が吹き渡り、いっぺんに暑さを吹き飛ばしてくれました。ウルルを降りたとき、私は赤い石ころを拾って、背中に背負っていたリュックサックの中に入れました。旅の思い出として拾っただけで、特別な意味はありませんでした。まさか、後で、とんでもない不幸が私に降りかかってくるなんて夢にも思いませんでした。

ウルルを出発した後、ダーウィンに行くことにしましたが、その途中でキャサリン峡谷と言う国立公園によって行くことにしました。キャサリン峡谷は、国立公園だけあって、12キロにも及ぶ峡谷で、蒼い鏡のような水面を持ち、両側は7メートルの高さにも及ぶ岩で囲まれた美しい峡谷でした。私たちはキャラバンをキャラバンパークに置くと、ジープで探索に出かけました。観光地として記されているところは避けました。人ごみがいやだったからです。私たちは舗装されていないわき道に入っていき、人っ子一人いない川べりを見つけました。物音一つしない自然の中にいると心が洗われる思いがしました。水面を見ているうちに、ジェームズが服を脱ぎ始めました。「何をするの?」と聞くと、「こんなに暑くちゃたまらないよ。水浴びをしてくるよ」とパンツ一枚になって、川に入って行きました。私は川岸で彼を見守っていました。私はあまり泳ぎが得意ではないのです。ジェームズが腰まで水に浸かったところで、泳ぎ始めました。その時です。ワニの頭が水面から出てきたのは。そしてジェームズに襲い掛かったのです。『ギャー』というジェームズの悲鳴が聞こえたかと思うと、みるみるうちにジェームズの体が水面下に沈んで、見えなくなりました。ワニに足を食いつかれて、川の底に引っ張り込まれたようです。私は目の前で起こっていることが、まるで映画の場面のように思えて、しばらく唖然としていました。その後、「ジェームズを助けなくっちゃ」と言う焦りが心の中に湧き上がってきたのですが、それと同時に恐怖で足がすくんで動けないのです。やっとショックから立ち直ると、救助隊を呼ばなくてはと思い、ポケットから携帯電話をとり出して、000の番号を押そうと思ったのですが、電波が届かない所らしく、携帯が使えません。

ジェームスのいた方を見ると、蒼い水面のそこだけが真っ赤にそまっていました。ジェームズの血なのでしょう。早く何とかしなければと、ジープに飛び乗って、キャラバンパークのあるところに向かって走りました。あんなに車を飛ばしたのは生まれて初めてです。後で考えると、よく事故を起こさなかったものだとぞっとしました。


次回に続く.....

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ウルルの石 第二話 田中幸雄の話(完結)

それからは、母と僕の末期癌との戦いが始まったのです。母の好物の果物や魚を買ってきて、食べさせようとしても、母の体が受け付けなくなっていました。すぐに、吐き出すのです。流動食にすると、一さじか二さじ食べますが、それだけでは栄養失調になってしまいます。結局栄養剤を点滴してもらいました。痩せているとはいえ、母をトイレに連れて行ったり、風呂に入れたりするのは、かなりの重労働でした。そんな時、母の妹の和恵おばさんが二日に一回は訪ねてくれて、とても助かりました。特に母の体力が衰えてトイレにも行けなくなった時、僕も母の下の始末をするのに抵抗がありましたが、それ以上に母は男の僕が始末をするのに抵抗があったようです。そんな時、和恵おばさんが訪ねてくると、母は和恵おばさんには遠慮なく下の世話でも頼めると言って、ほっとしたようでした。僕は近所に食べ物や雑貨を買いに行く以外、外出するのもままならなくなりました。それも出かけている間に母に異変があったら大変だという思いから、焦って必要な物だけ買って慌ててうちに帰りました。

最初の2ヶ月は、母と将来のことについて話すゆとりもありました。ところが2ヶ月目を過ぎた頃から、母の胃の痛みが耐え難いものとなり、往診にきてくださったお医者さんの鎮痛剤も効かなくなってしまいました。そんな時母は痛みで顔を歪め、のたうち回るのですが、それをどうしようもなくただ見ているだけの僕は、自分の無力さに泣きました。そのとき、安楽死反対と言う人は、母のようにもう助かる望みのない患者の苦しみを目の当たりにしたことがない人だと思いました。そして、何度も思いました。この母の苦しみを少しでも軽くしてあげられたら、短くしてあげたらと。だから、母が亡くなったときは、思わず「よかったね、お母さん。これで、もう苦しまなくてもいいよ」と言ってしまいました。

父母を一挙に半年の間に亡くしてしまったのです。それだけでも、僕は落ち込んでしまっていたのに、僕の不幸はそれでは終わりませんでした。
母が帰らぬ人となって一ヵ月後、僕は真夜中、がっしゃんと言う瀬戸物が壊れるような音で目が覚めました。「どうしたんだろう?」と起き上がりかけた僕は、急に体を揺すられて、倒れてしまいました。最初何が起こったのかわかりませんでした。それから家ががたがた揺れているのに気がつきました。「地震だ!」と思ったとたん、体がすくんでしまいました。それでも何とか這って台所のテーブルの下に潜り込みました。その後、すごい揺れに見舞われたかと思うと、バサーっと大きな音がして、天井が崩れ、屋根が落ちてきました。幸いにもテーブルの下にもぐっていたので、僕は押しつぶされなくて済みました。地面の揺れが何分続いたのか分かりません。数十秒だったのかもしれません。でも、僕には永遠に続くように思われました。揺れがおさまったところで、テーブルから出ようと思うと、テーブルが瓦礫に覆われていて、出られそうもありません。瓦礫を押しのけようと渾身の力を振り絞って押すのですが、びくともしません。僕は焦り始めました。暗闇の狭い空間で、額の汗をぬぐいながら、何度も押してみました。しかし焦れば焦るほど、瓦礫の山は僕をあざ笑うように、微動だにしないのです。僕はだんだん力が入らなくなり、このまま死ぬのかなあと思い始めました。しかし、そのうち誰かが助けに来るかもしれない。体力を消耗しないほうが得策なのかもしれないと考え直しました。ジーッとしていると、オーストラリアから帰って起こった不幸な出来事が走馬灯のように思い出されました。つらいことばかりでした。死ぬなら死んでもいいなと思いました。息もだんだん苦しくなってきました。空気が少なくなってきたようで、意識がだんだん薄れていくようでした。その時、外でワンワンと吼える犬の鳴き声が聞こえたかと思うと、人声がしたように思いました。僕は救助隊が来たのだと気づくと、思い切り声を張り上げました。「助けてくれ~」

「助けてくれ~!」と3度叫んだときでしょうか。「おーい。ここに誰か埋っているようだぞ」と声がしました。それから、木材や瓦礫を取り除いていく音がしました。そして、太陽の光が一条の明かりとなって僕のいる空間に差し込んできた時、「僕は助かったんだ!」と思いました。それから僕は救助隊の人に体を引っ張られて、外に出ることができました。その後病院に運ばれましたが、たいした外傷はないということで、うちに帰されました。とはいえ、家は屋根が押しつぶれて、もう家の中に入ることもできない状態でした。心配をして携帯に電話してきてくれた和恵おばさんのうちに、しばらく厄介になれることになったのは不幸中の幸いでした。和恵おばさんのうちで晩御飯をもらい床につこうかと思っていた時、ニュースで聞いたというオーストラリアにいる日本人の友達から電話がかかってきました。

「ニュースで聞いてびっくりしたんだけど、田中のうちは大丈夫だったの?」

「いや、全然大丈夫じゃないよ。家が全壊して、僕は屋根の下敷きになったんだ。でも救助隊に無事救出されたんだけど。今晩は親戚のうちに泊めてもらっているんだけど、これからどうしようかと思っているところだよ。本当にオーストラリアから帰ってから、父が自殺するし母は胃癌で苦しんで死ぬし、今度は地震で家が全壊だよ。僕は命こそ失わなかったけれど、次から次へと悪いことばかり起こって、心身ともにクタクタだよ。生きていくのもいやになったよ。まるで、誰かの呪いにかかったみたいだよ」

僕の使った呪いと言う言葉が引き金になって、その友達が言った言葉は、僕をぞっとさせました。
「呪いなんて、今の時代そんなことあるわけないだろ。そういえばつい最近ウルルの石を盗んで帰った連中が、いろんな不幸に見舞われるという記事が新聞に載っていたな。まさかウルルの石を盗んで帰ったんじゃないだろうな」
その友人はきっと冗談のつもりで言ったのでしょう。でも、僕は自分の顔の青くなっていくのが分かりました。
「そんなことがあるのか?」
「いやあ、新聞にはそう書いてあったけど。その連中が後悔して送り返した石と言うのを展示した所が、アリススプリングにはあるそうだよ」
僕は、疲れていたはずなのに、その晩は一睡もできませんでした。
そして翌朝早く、全壊した自宅に戻って行き、瓦礫の山をひっくり返していきました。そしたら、あったのです。ウルルの石が。僕はすぐに郵便局に行って、その石に謝罪文をつけてウルルの管理事務所に送り返しました。だから、ウルルの石のその展示場には今では僕の送り返した石も展示されていることでしょう。僕の謝罪文をつけて。

ウルルの石を送り返した翌日のことでした。これからどうして暮らしていこうかと浮かない思いで新聞を読んでいると、「自分史募集」の広告が目に留まりました。懸賞金3百万円。懸賞金の額も魅力的だったし、僕にこの一年間降りかかった不幸を書くことによって自分の気持ちの整理もできるように思い、それから日夜コンピュータに向かって、自分史を書き始めました。たとえ懸賞金がもらえなくっても、僕は今までの一生で、本当にやりたいことができ、心の底から湧き出る喜びを感じています。


次回 「ウルルの石 第三話 レイチェル・アンダーソンの話」にご期待ください。

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ウルルの石 第二話 田中幸雄の話(1)

第二話 田中幸雄の話

 僕は去年ワーキングホリデーのビザを取って、オーストラリアに1年行きました。大学を出て2年間商社に勤めましたが、朝から晩まで安月給でこき使われ、一生こんな毎日を過ごしていくのかと考えるとうつ病に陥って、結局親の反対を押し切って商社を辞めて、一年間オーストラリアに行ったのです。オーストラリアではいろんなところを見て回りましたが、ウルルは一度行ってみたかったところです。アデレードから電車に乗って2日がかりで行きましたが、本当に自然の厳しさを感じさせるところでしたね。ウルルの山には勿論登りましたよ。頂上で他の人に写真をとってもらって、ブログに載せたら、日本にいる友達から随分羨ましがられました。いい身分だって。ウルルで石を拾い、記念に持って帰りました。僕はウルルの石の呪いなんて聞いたことがなかったので。もし、そんなことがあることを知っていたら、持って帰ったりはしなかったでしょう。本当に軽い気持ちで持って帰ったのです。

日本に帰ってから、僕は一生懸命就職活動をしました。オーストラリアに1年いたってことで、皆から英語ができると思われ、うまく語学学校の英語教師になることができました。本当は1年オーストラリアにいたって、日本人と付き合うことが多かったから、英語がそんなに上達したわけではないけれど、みんなの誤解を利用したといえば利用したことになるかな。そこまでは、順調な人生だったのです。けちがつき始めたのは、その後からでした。

英語教師になって、一ヶ月経ったときです。父が行方不明になったのです。いつものようにかばんを持って会社に行ったのに、その晩は10時になっても帰ってきませんでした。最近は帰りが早かったし、几帳面な性格の父は遅くなる時はちゃんと連絡してくれるのにおかしいと母が心配し始めました。その晩は、心当たりに電話してもいなかったので、翌朝警察に届けようということで、寝ました。翌朝、もしかしたら会社に行っているのかもしれないとかすかな望みをもって母が会社に電話して驚くべき事実を知ったのです。父は会社を一ヶ月前にリストラになっていたのです。プライドの高い父は、そのことを家族に言えなかったのでしょう。毎日会社に行くそぶりをして家を出ていました。それから、父の安否が気遣われ始めました。会社にも行っていない父がどこに行くというのでしょう。すぐに、母と一緒に警察に届出に行きました。それからまもなくです。父が踏み切りで電車に飛び込んで自殺を図ったという知らせが警察からあったのは。父の自殺は僕たちの生活を根底から揺るがしました。それまで僕には、身近で人が死ぬという経験がありませんでした。毎日一緒に生活をしていた父が一瞬のうちに自分の人生から永遠に消え去ったということは僕には受け入れがたいことでした。母はもっとつらかったことでしょう。自殺する前の父の苦しみをどうして見抜けなかったのだろうといつまでも自分を責めていました。

次の不幸はそれからまもなく母に襲い掛かってきました。食欲がなくなった母は、父の自殺のためのストレスでご飯がのどを通らないのだろうと、自分で勝手に決め付けていたようです。時々胃が痛むことがあっても、胃薬を飲んですませていたのです。でも、みるみるうちに痩せていって、頬がこげ落ち、頬骨がとんぎって見えるようになり、僕は何かおかしいと思い、母を無理やり病院に連れて行ったのです。そしたら、胃癌だと言い渡されたのです。それも腸に転移しているということで、「お母さんの命も後3ヶ月でしょう。お母さんの好きなようにさせてあげてください」と医者から言われました。そして母にもそのことが伝えられました。母はどんなにショックを受けただろうかと心配しましたが、母は自分のことより一人残される僕のことが気がかりだったようです。
「幸雄、私はもう十分生きたし、死んだらお父さんにも会えるからいいけど、あんたは一人っ子だったから、あんたのことだけが気がかりよ。いい人でもいないの?いい人がいたら早く結婚して。そしたら私も安心して死ねるから」

そんなことを言われても、僕にはいい人なんていなかったから、母の願いは叶えられそうもありませんでした。それよりも、差し迫った問題がありました。残された時間を自宅ですごしたいと言う母の願いで、自宅に帰された母をどうやって看護するかです。一人っ子の僕は、看護を頼める兄弟もいないので、僕が看護をする以外ないのですが、僕も勤めがあります。付添婦を雇うほど、給料をもらっていないので、考えに考えた挙句、語学学校をやめて、母の看病に専念することにしました。


次回に続く.....

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ウルルの石 第一話 シェリー・イーストの話(完結)

「友達のところに泊めてもらったよ」
「友達って誰? PJのこと?」
ケリーは、一瞬ぎょっとしたような顔をしましたが、すぐに平静をよそおって、
「ロバートのところだよ」と言いました。

私はケリーに食い下がりました。
「PJ って誰のこと? 夕べあなたの居所を探そうと思って見つけた手帳に載っていたんだけど」
ケリーは観念したようにいいました。
「大学時代の友達だよ」
「最近よく会っているみたいだけど、どうして私に紹介してくれないの?」
困ったような顔をして、ケリーは返事につまりました。
「PJって女の人なの?」
ケリーは答えたものかどうか躊躇していましたが、やっと返事がもどってきました。
「そうだよ。それがどうしたんだ」
「私と離婚したいと言い出したのは、その人のため?」
ケリーは激しく首を横に振って
「彼女とは関係ないよ」と言いました。

でも、私にはそれが嘘だとすぐに分かりました。そして多分夕べは彼女のところに泊まったんだということも女の直感で分かりました。
その後は、ケリーも私も別々の部屋に引っ込んで、顔を合わせることを避けました。今ケリーを追い詰めるのは得策ではないと思ったからです。
その日の昼過ぎに、いつもはおなかを蹴っ飛ばす活発なおなかの子が全然動かなくなったことに気づきました。

「ケリー、赤ちゃんが動かなくなったわ。どうしよう。」居間でテレビを見ていたケリーに言うと、さすがにケリーも心配顔になって、すぐに病院に連れて行ってくれました。
おなかに聴診器を当てた医者が、「赤ちゃんの鼓動が聞こえませんね」と言った時は、顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かりました。その後、いろんな検査にまわされ、検査の結果をケリーと一緒に聞きました。
「胎児の首にへその緒が巻き付いて、もう胎児は窒息死していますよ」
その言葉を聴いて、頭が真っ白になってしまいました。
「すぐに入院してください。死んだ胎児をいつまでもおなかの中にいれておくのは母体によくありません。陣痛促進剤で、人工的に陣痛を引き起こし、胎児を出しましょう」
二人きりになった時、私はヒステリックになって喚きました。
「あなたが殺したんだわ。きっとこの子はあなたに望まれていないことを知って、自分で首をしめて死んだんだわ」

私には、赤ちゃんが窒息死したのは、生まれてくることを望まれていないということを察知して自殺したように思えたからです。ケリーもさすがに罪の意識で胸がうずいたのでしょう。入院している間、ずっとつきそってくれ、私の体を気遣ってくれました。
悲しいお産でした。陣痛促進剤を注入している間、私は頭が朦朧としていました。普通胎児に対する影響を配慮して使われない鎮痛剤がたんまり使われたからです。陣痛が始まって胎児が出てくるのにはたいして時間がかかりませんでした。おなかから出てきた子は、男の子でした。そしてもう手の指もはっきりしていました。肌がピンク色で、血管が透き通って見えました。両の掌に乗った小さな赤ん坊を見て、私は泣きました。赤ん坊は病院で供養して流産や死産した赤ん坊のための共同墓地に入れるといわれました。その後入れられた産婦人科の病室は、赤ん坊の泣き声と大人の笑い声で溢れていました。同室の人たちが生まれたばかりの赤ん坊を抱いているのを目にしたり、面会に来た赤ん坊の父親と思われる人や親戚の人たちとの楽しい会話が聞こえたりするのは、私には特にこたえました。
ケリーが毎日病院に来てくれるので、また私たちは元に戻れるのではないかとかすかな期待を持ち始めました。ケリーは私が病院に入ってから一言も離婚の「り」の字も言わなくなりましたし。私はケリーと別れたくはなかったのです。

しかし、病院からうちに帰った私にケリーが言った言葉は「もう僕たちをつなぐものは何もなくなったね。別れよう」という言葉だったのです。
私は一晩中考えました。ケリーと別れたくない気持ちと、赤ん坊を殺したケリーを許せない気持ちとが波のうねりのように交互に押し寄せてきました。そして、よその女に心を移しているケリーを引き止めるの自信もなくなりました。色々な思いがありましたが、結局はたとえケリーを説得して結婚生活を続けても、もう何事もなかったように暮らしていけないと思い、離婚に同意しました。それからは財産分けのため家を売って、小さな貸しアパートに移りました。一人でアパートの狭い部屋にいると、悲しみで気が狂いそうでした。ひどいうつ病にかかったのです。それからは精神科医のくれる薬を飲んでなんとか毎日を過ごしているという日々が続きました。ケリーにはうちを出た後会っていませんが、風の便りに、ポーリン・ジャクソンという女性と同棲し始め、私たちの1年の別居生活が終わって離婚が正式に決まったところで、彼女と再婚するつもりのようだとききました。結局、私は仕事も夫も息子も家も、全部失ってしまったのです。

生きる気力も失いかけていたある日、気晴らしに出かけたロンドンにある有名な高級デパート、ハロッドの人ごみの中でばったりグレンに会いました。グレンは、オーストラリア一周のバスツアーの参加者の一人で、一緒にウルルに登った仲間の一人でした。グレンから当然のことのようにケリーのことを聞かれ、話すつもりがなかった不幸の連続を、ついついグレンにこぼしてしまいました。グレンはそれを黙って聞いていましたが、私の話を聞き終わると、「まさか、ウルルの石を拾って帰ったんじゃないだろうね」と言うのです。「何のこと?」といぶかしげに聞く私に、「ウルルの石を拾って帰った人には呪いがかかるっていわれているよ。もっともアボリジニの人は、そんな伝説はないと否定しているということだけど」グレンのその言葉は電撃のように私を打ちのめしました。悪夢のような1年を振り返って、私はこれはウルルの石の呪いだと確信したのです。

私がすぐに謝罪の手紙をしたためて、ウルルの石をウルルの管理事務所に送り返したのはいうまでもありません。
ウルルの石を返した後、どうなったかですって?見てください、このダイヤモンドの指輪。キラキラ光って、とてもきれいでしょ?夕べ、グレンからもらったんです。ええ、私達、ハロッドで出会った後つきあい始めて、きのう婚約したんです。そして、仕事もみつかり、来月からまた小学校で教えることになりました。今まで仕事をして結婚をすると言うのは当たり前のことのように思っていましたが、悲しい経験をした後では、こんな平凡なことがどんなに幸せなことかと身にしみて感じています。そうです。私は今とても幸せです。

次回 「ウルルの石 第二話 田中幸雄の話」にご期待ください。

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