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ウルルの石 第三話 レイチェル・アンダーソンの話(1)


第三話レイチェル・アンダーソンの話


 私は21歳で結婚し、25歳でひとり息子のクリスをもうけましたが、クリスが生まれた後、26歳で離婚してしまいました。クリスの父親は普段はやさしい人なのにアルコールが入るといっぺんに人が変わり暴力をふるうのです。クリスが生まれてから暴力の回数が増え、耐えられなくなったからです。その一年後、ジェームズと出会い、再婚しました。私はジェームズに一目惚れし結婚生活は楽しいものでしたが、一つだけ頭痛の種がありました。それは、ジェームズとクリスとはおりあいが悪くて、二人の間で喧嘩が絶えなかったことです。家庭がおもしろくなかったせいか、クリスは万引きをしたり、クラスメイトをいじめたりと問題ばかり起こし、ますますジェームズに疎まれる存在となりました。結局クリスは高校を中退して家を出て行き、家には寄り付かなくなりました。まあ、元気ならそれでいいと思い、クリスとは疎遠になりましたが、私はあまり気にしませんでした。クリスも自分の人生を好きなように歩めばいいと思ったからです。
ジェームスが去年の12月に55歳になったのを機に会社を退職したので、私達は念願のオーストラリア一周の旅に出ました。一年かけてゆっくり回るつもりで、キャラバンいわゆるキャンピングカーを買いました。キャラバンには小さな台所と食事をするためのテーブルと4人は座れる椅子、そしてベッドがついていました。テレビや電子レンジなどの文明の利器もついて、700万円と、お値段は高めでしたが、また売れば500万円は戻ってくるというセールスマンの言葉を信じて、思い切って退職金の一部をはたいて、買ったのです。

家を人に貸して、その家賃を旅行の費用にあてることにしました。シドニーを出たのは、今年の一月です。キャラバンをジープでひっぱって、最初に留まったキャラバンパークには、私たちのように退職後気ままな旅に出たという熟年夫婦が何組かいて、すぐに顔見知りになりました。キャラバンパークではトイレやシャワー、そして台所と洗濯場など、他の泊り客と共同のものが多く、挨拶をするのが当たり前の世界なので、知り合いができやすいのです。最初の夜は台所で知り合った夫婦、スーザンとケリーに夕食後ワインを飲みに来ないかと誘われていくと、キャラバンのそばに椅子を出し、チーズとクラッカーを出して歓待してくれました。

「今まで、どこを見て回った?」と聞くスーザンに
「私たち、シドニーを出発したばかりで、まだどこに行くかも決めていないの」と言うと、スーザンは
「私たち、もう3年旅をしていてオーストラリア中回ったけれど、一番のお勧めはウルルね。ウルルには絶対行くべきよ。雄大な景色で素晴らしいところよ」
そのスーザンの言葉に影響を受け、私たちはそれからすぐにウルルを目指してキャラバンを走らせました。

ウルルまでは、赤い土の大地の中をまっすぐに走る道路が行けども行けども続いていました。昼間はカンカン照りで暑さに圧倒されましたが、日が翳ると急に冷え、夜は薄いセーターがいるほど寒くなり、典型的な内陸性気候でした。目に映るのは水平線に山一つない単調な風景の連続でうんざりしかけた3日目に、私たちはウルルを見ることができたのです。スーザンの言った通り、その雄大さは素晴らしいものでした。3日も走ったかいがありました。照りつける日の中をジェームズと二人でウルルに登りました。上るときは岩に当たって照り返した日の熱で、暑くてたまりませんでしたが、頂上に着くと風が吹き渡り、いっぺんに暑さを吹き飛ばしてくれました。ウルルを降りたとき、私は赤い石ころを拾って、背中に背負っていたリュックサックの中に入れました。旅の思い出として拾っただけで、特別な意味はありませんでした。まさか、後で、とんでもない不幸が私に降りかかってくるなんて夢にも思いませんでした。

ウルルを出発した後、ダーウィンに行くことにしましたが、その途中でキャサリン峡谷と言う国立公園によって行くことにしました。キャサリン峡谷は、国立公園だけあって、12キロにも及ぶ峡谷で、蒼い鏡のような水面を持ち、両側は7メートルの高さにも及ぶ岩で囲まれた美しい峡谷でした。私たちはキャラバンをキャラバンパークに置くと、ジープで探索に出かけました。観光地として記されているところは避けました。人ごみがいやだったからです。私たちは舗装されていないわき道に入っていき、人っ子一人いない川べりを見つけました。物音一つしない自然の中にいると心が洗われる思いがしました。水面を見ているうちに、ジェームズが服を脱ぎ始めました。「何をするの?」と聞くと、「こんなに暑くちゃたまらないよ。水浴びをしてくるよ」とパンツ一枚になって、川に入って行きました。私は川岸で彼を見守っていました。私はあまり泳ぎが得意ではないのです。ジェームズが腰まで水に浸かったところで、泳ぎ始めました。その時です。ワニの頭が水面から出てきたのは。そしてジェームズに襲い掛かったのです。『ギャー』というジェームズの悲鳴が聞こえたかと思うと、みるみるうちにジェームズの体が水面下に沈んで、見えなくなりました。ワニに足を食いつかれて、川の底に引っ張り込まれたようです。私は目の前で起こっていることが、まるで映画の場面のように思えて、しばらく唖然としていました。その後、「ジェームズを助けなくっちゃ」と言う焦りが心の中に湧き上がってきたのですが、それと同時に恐怖で足がすくんで動けないのです。やっとショックから立ち直ると、救助隊を呼ばなくてはと思い、ポケットから携帯電話をとり出して、000の番号を押そうと思ったのですが、電波が届かない所らしく、携帯が使えません。

ジェームスのいた方を見ると、蒼い水面のそこだけが真っ赤にそまっていました。ジェームズの血なのでしょう。早く何とかしなければと、ジープに飛び乗って、キャラバンパークのあるところに向かって走りました。あんなに車を飛ばしたのは生まれて初めてです。後で考えると、よく事故を起こさなかったものだとぞっとしました。


次回に続く.....

著作権所有者・久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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