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ウルルの石 第三話 レイチェル・アンダーソンの話(2)

 キャラバンパークに着くと事務所に向かって一目散に走りました。幸い事務所には40歳ぐらいの男がコーヒーを飲んでいるのが見えました。「夫がワニに襲われたの、助けて!」と自分では言ったつもりですが、事務の人は当惑した面持ちで「落ち着いて、落ち着いて。そんなにヒステリックに言われては、何を言っているのか分からないよ」と言うので、深呼吸をして、もう一度言いました。「夫がワニに襲われたの」それを聞くと事務所の人の顔色が変わり「どこなんだ?」と聞きました。私たちは地図を見てその場所に行ったわけではないので、私が案内しなければ分からないことに気づき、事務所の人が救助隊に連絡して、救助隊が来るのを待って、案内することになりました。後で聞いたところによると救助隊は10分くらいで来たと言うのですが、その10分は私にとっては永遠に感じられました。待っている間、イライラしながらもウロウロする以外私には何もできませんでした。やっと4人の頑強そうな男からなる救助隊が来てくれ、私の案内で、事故現場に着いた時は、ジェームズはおろかワニの姿さえ見当たりませんでした。救助隊がボートを漕いでジェームズのいた場所に行きましたが、水面が血に染まっているだけでした。もうこのときにはジェームズが生きている可能性はほとんどないことは誰の目にも明らかでした。それから夜を徹して救助隊がジェームズの死体の捜索にあたってくれましたが、結局死体さえみつかりませんでした。

 それからのことは夢の中の出来事のようでした。7日間続いた捜索も虚しく、ジェームスの死体は見つかりませんでした。8日目には捜索は打ち切られ、救助隊の人たちは気の毒そうに私に言いました。「お気の毒ですが、きっとお宅のご主人はきっとワニに食べられてしまったのでしょう。だから死体を取り戻すことは不可能だと思います」
私は泣く泣くダーウィンに行き、そこでキャラバンとジープを売って、ダーウィンから飛行機でシドニーに帰りました。そして死体のないままお葬式をするはめになりました。私はその間毎晩悪夢にうなされました。ジェームズのあの最後の悲鳴が耳から離れないのです。助けようにも助けてあげられなかったことでも自責の念にさいなまされ、夜中に自分の叫び声で目が覚めることも一度や二度ではありませんでした。

 そんなおり、外務省の人からの訪問を受けました。ビクターと言う紺色のスーツを身に着けた30代のその男は「息子さんにクリスさんていらっしゃいましたよね」と言うので、「そうです。でもこの10年くらいうちには寄り付きませんから、今どこにいるかも知らないんですよ。先日夫が亡くなったのですが、お葬式のことを知らせようにも、居所が分からなくて、夫が死んだことさえ知らせていないくらいですから」と言うと、
「クリスさんは今シンガポールにいますよ」とビクターは言いました。
「シンガポール?シンガポールで一体何をしているんでしょうか?」
どうして外務省の人がわざわざそんなことを私に伝えに来たのか、分かりませんでした。

「今病院に入っていて、生死の境をさまよっていますよ」と言う答えが返ってきて、私を驚かせました。
「どんな病気にかかったのですか?それとも何か事故でもあったのでしょうか?」と聞くと、
ビクターは言いにくそうに、
「実はですね、クリスさんは麻薬をシンガポールからオーストラリアに持ち出そうとして、コンドームに入れて、飲み込んでいたのです。それも一つじゃなくて5つもです。その袋の一つが胃袋の中で破れて麻薬が体内に回り、麻薬の中毒症状を引き起こしたのです。ちょうど税関のところで、突然顔がまっさおになって倒れたので、救急車で病院に運んで検査した結果、麻薬の中毒症状だと分かったのです」と言いました。
クリスは高校時代からマリファナを吸っていたのは知っていましたが、麻薬の運び屋になっているとは思いもしませんでした。

「麻薬を飲み込むなんて、なんて無謀なことを、、」
「最近は麻薬の取調べが厳しくなっていますからね、スーツケースに隠したり、体に巻きつけたりするのが今まで良く使われる手段だったのですが、そうすると警察犬が匂いをかいですぐに捕まるので、こんな手を考えたんでしょうね。麻薬を飲み込まれると、いかに嗅覚が発達した警察犬でもかぎ分けられないんですよ。だから、時折こういった無謀な方法を取る運び屋もいるんですよ」とビクターは言いました。そして
「シンガポールに行かれるようでしたら、パスポートや航空券の手配はしますが、いらっしゃいますか?もっとも経費は払っていただくことになりますが」と言ってくれました。

「勿論です。シンガポールにはいつ行けるのですか?」
「明日には、航空券もパスポートも用意できると思います。ですから、明日の夕方には出発できるように支度をしておいてください」
ビクターを玄関まで見送っていくと、玄関のドアを開けたところでビクターは振り返り、言い足しました。
「もう一つ大事なことを言い忘れるところでした。シンガポールは麻薬の取締りが厳しく、たとえ少量の麻薬でも売買を目的とした麻薬を所持している場合は、絞首刑にされます」
「絞首刑?」



次回に続く.....

著作権所有者・久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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