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運のない男(1)

ジェームズは今朝から何度ため息をついたか分からない。ため息をついたからといって事態は改善するわけではない。覚悟を決めてインターフォンで秘書に言った。
「すまないが、ムハマドを呼んでくれ」
「はい、分かりました」
 ムハマドが自動車部品を製造しているジェームズの会社に入ったのは1年半前のことだった。
「何かお仕事いただけないでしょうか」と会社を訪れたムハマドは英語もまともに話せないようなイラクからの難民だった。なけなしの金をはたいてインドネシアに飛び、それからインドネシア人の密航を商売をしている男に金を払って、今にも沈没しそうなおんぼろ漁船に乗ってオーストラリアに難民としてやってきたのだ。しかし、オーストラリアではすぐに収容所に入れられ、難民として認められるのに半年もかかった。難民として認められたといっても、2年間の臨時のビザが発給されただけで、2年間に仕事が見つからなければ強制送還という厳しい条件付のものだった。その頃のジェームスの会社は景気が良かった。だから、一人くらい雑用をする用務員が欲しいところだったので、すぐに採用を決めた。それからムハメドはその陽気な性格で、すぐに周りの者に溶け込み、今では会社の人気者だった。そのムハメドの首を切ることは、ジェームズも心苦しかった。今朝2時まで会社の赤字だらけの帳簿を眺めて、なんとか経費を削減できないかと頭を悩ませたのだが、ムハメドを解雇する以外の方法を思いつかなかった。
ドアのノックの音と共にムハメドはいつもの人懐こい笑顔を浮かべて、ジェームズの部屋に入ってきた。
「ボス、おはようございます。今日は何のご用でしょうか?」
他の社員は皆ジェームズをジェームズと呼ぶのだが、ムハメドはいつもジェームズをボスと呼ぶ。
「まあ、すわりたまえ」と言うジェームズの顔はいつもとは様子が違って険しかった。ムハメドはそんなジェームズに戸惑いを感じたようで、黙ってジェームズの机の前にある椅子におずおずと腰掛けた。
「ムハメド。君も知ってのとおり、今わが社の経営が苦しくてね、経費削減のため君にやめてもらわなくてはいけなくなった。普通は解雇する時は2週間分の給料しか出さないのだが、君が会社に貢献してくれたことは僕も認めているので、3ヶ月分の給料を払う。今から会計に行って、給料をもらってくれ」
ジェームズは一気にそれだけ言った。すると、見る見るうちにムハメドの目から涙が流れ落ち始めた。ジェームズはムハメドから視線をはずし、椅子から立ち上がると、ムハメドの手を取って
「すぐに、次の仕事が見つかることを願っているよ」と握手しながらいい、そのまましおれているムハメドの肩を二度叩くと、自分の部屋を出て行った。
後に残されたムハメドは、しばらくショックで立ち上がれなかったが、5分も経つと、のろのろと椅子から立ち上がり、ジェームズの部屋を出て行った。


著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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