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裸の男(1)

「ちょっと早く来すぎたかしら」
クリニックの前に車を停めた小百合は、腕時計を見ながら独り言のようにつぶやいた。
医者との予約は4時半なのに、まだ4時15分だ。待合室で待てばよいのだが、風邪でもうつされたら大変だと、小百合は車の中で、4時半まで待つことにした。小百合は避妊用のピルの処方箋をもらいに来ただけなのだ。
 その日は雨がシトシト降っていて、春とはいえ、肌寒い。車の中ですることもなくクリニックの向かい側を見ると、アパートのような建物が目に入った。四角い窓がたくさんついている。まだ4時過ぎなのに薄暗いためか、アパートの中には明かりがついている部屋もちらほら見える。そんな部屋の中にカーテンが引かれていなくて中が丸見えなのがあった。小百合の目はその窓から見える光景に引き寄せられるようにとまって動かなくなった。というのは、中に男が椅子に座っているのが見えるのだが、その男が裸だったからだ。その男は白人で、黒い髪をしているのが、認められた。しかし、この肌寒い日に裸で何をしているのだろうという疑問が起こった。情事のさなかというのが、まず頭に浮かんだが、その男は椅子に座ったままで、その姿勢を変えそうもない。誰かと話しているようでもあり、コンピュータを使っているようにも見える。何しろその部屋は2階なので、小さな窓からは上半身しか見えない。10分経っても姿勢が変わらないので、すぐに情事の真っ最中という想像はかき消された。この寒い日に裸なのは、どうしてだろう。その理由を色々考えたが思いつかなかった。そのうちに医者との約束の時間が来たため、その疑問はそのまま小百合の心の中で持ち越されることになった。小百合の脳裏には、あたかも窓枠が額縁になった写真のように、その男の裸の姿が焼きついた。
家に帰ると、小百合は早速夫の隆に、自分の疑問を投げかけた。
「今日ね、クリニックの向かい側のアパートの窓から、裸の男が見えたの」
そう言うと、隆はぎょっとした顔になって、
「裸の男?」と聞き返した。
「そう。クリニックの前に車を停めて前の建物を見たら、明かりのついている窓から上半身裸の男が見えたの。こんな寒い日に裸でいるなんて、どうにかしているんじゃないかしら」
隆はにやっとして、
「それは情事の最中だったんじゃないか」と答えた。隆も小百合も考えることは一緒のようだ。
「私も最初そう思ったんだけれど、15分ずっと座ったままだったのよ。だから情事の最中だとは思えなんだけれど、こんな寒い日に裸でいる理由って何かしら」
「うーん。ちょっと分からないなあ。もし、そこがアパートでなくてホテルだったら、理由が分かるけれどな」
「あっ、もしかしたら、そこホテルかもしれない。そこのところはよく分からないんだけど。もしホテルなら、どういう理由が考えられる?」
「今日はにわか雨が降っただろ?だからワイシャツが濡れたので、ワイシャツを乾かすために裸でいたってことが考えられるな」
「ふーん。そういえば。今思いついたんだけれど、もしかしたらコンピュータの前に座って、女性にアピールするために、自分の裸の姿を自分のブログにアップロードしていたのかもしれないわね。最近、フットボール選手がファンの女性に自分のペニスを撮った写真を携帯で送って問題になったことがあるわよね」
「そういえば、アメリカでも大統領候補者が女性に自分の裸の写真を送って、スキャンダルになった事件があったよな」
「そうね。きっとそれだわ。いやーね。変なもの見ちゃったわ」
小百合はそう言うと、おぞましいものを見たというように身震いして、そのことは、忘れることにした。世の中には自己顕示欲の塊のような人がたくさんいるから、きっとあの男もそのうちの一人なのだろうと思った。
半年もたつと、その時の記憶は日常の煩雑さにまぎれて、消えていった。


著作権所有者:久保田満里子
 

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2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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