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ハンギングロック:後藤の失踪(7)

 僕は自分のカップに紅茶を入れた後、職員室のソファーに座ってカップ片手にコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるメアリーに話しかけた。
「メアリー、今何の研究しているの?」
 メアリーは、新聞から目を離して、僕を見上げた。
「今?オーストラリアの移民の英語習得について研究しているわ」
「データーはどうやって集めるの?」
「オーストラリアの統計局の出している移民に関する統計をデーターにしているの」
「え?じゃあ、人間が対象でないの?」
 僕は、やっと人間が対象でない研究をしている人に会って、思わずバンザイと叫びそうになった。
「そうだけど、どうして?」
「それじゃあ、その研究するには倫理委員会の許可をもらわなくてもいいんだね?」
「そうよ」
僕は嬉しさを隠しきれず、思わず身を乗り出して言った。
「それは、いいなあ。僕はもう倫理委員会に提出する書類を書くだけで閉口しているんだ。僕も政府から出している統計を使う研究に切り替えようかな」
メアリーは、笑いながら、言った。
「でも、ケースケ、統計、できるの?」
「統計できるって、どういう意味」
「だって、いろんな統計を使って処理しないと、自分のほしい情報は得られないわよ。たとえばカイ二乗検定なんか使って…」
 聞きなれない言葉を耳にして、僕は戸惑った。
「え、そうなのか。政府の出した統計をそのまま使って分析するんじゃないのか。僕、数学は弱いからなあ。統計って聞いただけで、びびっちゃうよ」
おじけついて言った。
「じゃあ、統計を使う研究はよしたほうがいいわよ。もっとも、基礎さえ勉強すれば、後はコンピュータのソフトウエアがやってくれるから、簡単なんだけどね」
「そうなの。でも、ちょっと僕にはできそうにもないなあ。それじゃあ、あきらめるとするか」
「そういえば、うちの大学の統計学科に頼めば、欲しいデータを出してくれるけど、お金を取られるわよ。どこかから研究助成金をもらえば、そこから払えばいいんだけれど」
「助成金かあ。今フレデリックに早く、研究費応募の申請書を出せってうるさく言われているんだけど、研究テーマも決まってなくて、今考えているところなんだよ。何か面白い研究テーマ、ない?」
「ケースケが、日本語を教えるとき、一番困っていることって、何?」
「それは、中国人とオーストラリア人の学生を一緒に教えなくちゃいけないことだよ。中国人は漢字ができるから読み書きが得意だけれど、発音に問題のある子が多くてね。それに比べてオーストラリア人の学生は、会話は上手だけれど、読み書きができないんだ」
「じゃあ、オーストラリア人の学生に漢字をどのように教えるかっていうことを研究テーマにしたら、いいじゃない」
メアリーは大学院生の相談を受けるように、てきぱきと研究課題を提案してくれた。
「その問題で悩んでいるのはケースケだけじゃないんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、それをテーマにして研究して、何か効果的な教授法が見つかれば、皆に感謝されるわよ」
「そうだね。そういうテーマだったら、この研究はオーストラリア社会にどのような貢献をもたらすかっていう欄に、何を書こうかって悩まなくてもすむね。ありがと、メアリー」
「どういたしまして」と言うと、メアリーはまた読みかけの新聞に目を戻した。
メアリーと話して、やる気を出して研究室に戻ったのもつかの間、僕はまたまた誰を研究対象にするかで、頭を抱えてしまった。
 僕が図書館から借りてきた本を自分の研究室で読んでいると、香川さんが入ってきた。
「後藤さん、いつ休暇を取るの?日本語に関する問い合わせがあった時対応できるように、いつも誰かが大学にいるように当番制を組みたいんだけど」
僕は弘と祐一との約束を思い出した。
「息子たちをクリスマス前後にモーニングトンの海辺の家に連れて行ってやるって約束しているんですが」
「そう。大学は12月24日から1月1日までクリスマスの休暇に入るから、それだったら大丈夫ね。私は日本にいる母の具合が良くないので、12月15日から1ヶ月日本に帰国することにしたわ」
そう言うと香川さんの顔は曇った。
「お母さん、何の病気なんですか?」
「ぼけてきちゃっているらしいの。兄の家族と住んでいるんだけど、兄嫁さん、母の世話で大変らしいから、この際少しでも親孝行してこようかなと思っているのよ。後藤さんのお母さんはお元気なの?」
「ええ。カラオケだハイキングだと、人生を謳歌していますよ」
「そう。それはいいわね。じゃあ、私がいない間よろしく」
「そういえば、新入生の歓迎会が1月にありますが、どうします?」
「ああ、その頃にはこちらに戻ってきているから大丈夫よ」
そういって出て行った香川さんの後姿は心なしか元気がなかった。
 

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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