Logo for novels

ハンギングロック:後藤の失踪(9)

1月2日
(日付がまた1ヶ月も飛んでいるのを見て、聡子は「とたんに一ヶ月に一回の記録になるなんて、三日坊主のあの人らしいわ」と思った。)

 夏休みは子供たちと海辺で遊んであっと言う間に終わった。夏と言っても25度くらいの涼しい日が続き、海に入るには水が冷たくてためらわれた。結局僕が海水に足をつけたのは一回きりだった。後は海辺で小説などを読んだり子供たちと砂遊びをして過ごした。
 今日から仕事始め。まだ休暇中の教官や研究のデータ収集に出かけたり学会にでかけたりしている教官が多いためか、大学の建物の中はひっそりしている。
 電子メールを見ると、2週間見なかっただけで、500くらい未読のメールがたまっている。読むべきメールと読まなくていいメールとをより分けていくだけで、1時間かかってしまった。読むべきメールの一つに大学の印刷所からのメールがあった。
「1月中に印刷に回した物は1割引にしますので、早目に出してください」
 狩野さんには学生の出費を考えないと言って非難されたが、2月末から始まる新学期に備えて、1月中にテキストを作っておこう。本当なら、去年のテキストの日付を変えるだけで十分だと思うのだが、今年は何か新しいことにチャレンジしてみたいと思った時に思い出したのが、モニークのセミナーだった。モニークのやり方をまねするには、初めの出だしはこちらで与えなければいけないが、どんな話がいいのか決めかねている。日本に帰るたびに新しく出版された日本語のテキストを買ってくるので、僕の本棚は研究書よりも日本語のテキストで溢れている。本棚からいろんな読解のテキストを取り出して目を通したが、これといったものがない。「日本語中級読解ストラテジー」という本を開けたとき、ぱらっと中からA4サイズの紙が落ちてきた。なんだろうと机の上に落ちた紙を拾って読むと、大きな字で書かれている「ハンギング・ロックでのピクニック」と言う題が目に入った。そうだ、僕がオーストラリアに来て間もなく、オーストアリアの小説を学生に訳させようと思って選んだのが、「ハンギング・ロックでのピクニック」だった。これは以前学生たちに模範解答として自分が訳したものだった。これはいけるかもしれないと思った。
 「ハンギング・ロックでのピクニック」はハンギング・ロックを舞台にして描かれた百年前に起こった女子高生3人と女教師一人の失踪事件である。この小説では結局行方不明になった少女が一人見つかったが、その少女は何も覚えていないということで2人の少女と1人の女教師は行方不明になったままのミステリーで終わっている。 僕は自分の書いた『ハンギング・ロックのピクニック』の日本語の翻訳を読みなおした後、行方不明になった少女3人と先生一人に一体何が起こったのだろうかということを学生にグループプロジェクトで書かせることにした。この物語は映画で一躍有名になったのだが、英語の映画なので、日本語教育にはなんのメリットもないから、映画は見せないでおこうと思った。そう決めると狩野さんの意見も聞きたくなって、狩野さんの研究室に行くと、ドアはしまっていたが、電気はついていた。
ドアをノックすると、

「カムイン」と言う狩野さんの声が聞こえ、ドアを開けると、彼女は左手にサンドイッチを持ち、右手でコンピュータのキーを叩いているところだった。
「やあ、昼ごはんを食べながら、仕事かい」とからかうように言うと、狩野さんはちらっと僕のほうに目をやって、
「すぐすみますから、ちょっと待ってくださいね」と言って、すぐにまたコンピュータの画面に目を戻して、キーを打つ手を止めなかった。
「何しているんだ?」と僕がコンピュータの画面を覗き込むと、
「今書いている博士論文の第一章を学術誌に投稿しようと思っているんだけど、締切日が迫っているのよ」
「それは、大変だね」
狩野さんはスペースキーを押すと、一段落仕事が片付いたようで、初めてまともに僕の顔に目を向けて、
「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」と神妙な顔をして頭を下げ、挨拶をした。よく考えたら、狩野さんと会うのは今年初めてだった。
「明けましておめでとう。クリスマスの休暇はどうだった?確かニュージーランドに行ったんだったよね」
僕は狩野さんの向かい側の椅子に腰掛けながら言った。
「そういう予定だったんですが、聞いてくださいよ。一緒にニュージーランドに行く予定だった友人、急に盲腸炎で入院することになってオーストラリアに来れなくなって、結局ニュージーランド行きはキャンセルしちゃったんです。そしたら博士論文の指導教官のリチャードが急に博士論文の第一章を学術誌に投稿したらどうかと言うものだから、休暇どころではありませんでしたよ。原稿の締切日が1月7日なんですもの」
「それは大変だね。でもよく頑張るなあ君は」と後藤が心底から感心して言うと
「私は後藤さんと違って5年の契約ですからね。また契約を延長してもらおうと思うと大変なんですから」と憂鬱そうな顔をして言った。
「それじゃあ、今時間をとらすの悪いね。急がないことだから、君の原稿が仕上がったところで、また出直すよ」
「余り時間をとらないことだったら、今でもいいですよ」と言って、食べかけのサンドイッチをちり紙の上に置いた。
「まあ、たいしたことじゃないんだけど、この間モニークの作文の授業の進め方のセミナーがあっただろ?あれをヒントにして僕も学生に作文を書かせてみようと思うんだけど、それに選んだのが、『ハンギング・ロックでのピクニック』なんだ」
「『ハンギング・ロック』って何ですか?」
「ああ、君はあの映画を見ていないんだね。ハンギング・ロックにピクニックに行った女子高生3人と女教師一人が行方不明になった物語なんだけど、その行方不明になった少女たちと女教師に何が起こったかを想像させて作文を書かせようと思うんだ」
「ミステリーですか?面白そうですね。いいんじゃないですか?」
「オーストラリア人の学生と留学生を組ませて二人組のプロジェクトにしようと思っているんだ。オーストラリア人の学生はこの話を知っている可能性があるから、全然知らない留学生より有利だ。でも、日本語の読解となると留学生のほうが有利になるから、協力させるのはどうかなって思うんだ」
「どんな物語か読んでみたいわ。日本語版があるんですか?」
「何年か前に学生たちに翻訳させてね、僕が模範解答として訳したものがあるんだけれど、それを最初に学生に読ませようと思っているんだ。それじゃあ、それを貸してあげるよ」
「読むにしても1月7日以降になりますが、それでもいいですか?」
「一月中にテキストを印刷所に回せばいいから、1月半ばまで読んでくれればそれでいいよ」
「はい。分かりました。それじゃあ、この原稿お預かりしておきます」と僕の差し出した原稿を恭しく受け取ると、狩野さんはそれを引き出しにしまいこんだ。

著作権所有者:久保田満里子

関連記事

最新記事

カレンダー

<  2024-04  >
  01 02 03 04 05 06
07 08 09 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

記事一覧

マイカテゴリー