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ハンギングロック:後藤の失踪(6)

11月29日(火曜日)
 朝メールを見ると、モニークのセミナーが午後1時からあるから出席するようにと学科のマネージャー、マーガレットからメッセージが入っていた。
 会議室に行くと、10人ばかりの教官が集まっていた。10人と言うのはまだ多いほうで、時には司会者を除くと2名しかきていなかったというのも珍しくない。きのうのストライキ参加の一件から、狩野さんとは口をきいていなかったが、セミナーに行くと狩野さんが先に来ていた。目と目があってお互いにうなずいたが、特に言葉を交わさず、僕は会議室のドア近くに座っていた香川の隣に座った。
「香川さん。ウイットラム大学の選考、どうでしたか?」
「顔見知りの人も二人いたわよ。勿論誰が応募したかは、話せないけどね」
僕は一人で秘密を楽しんでいるような香川さんのニヤニヤする顔を見て、思わず笑った。
「いや、香川さんに聞かなくて、いずれどこかで情報が入ってきますよ。日本語教師の社会は狭いですからね」
「まあね。でも、日本からも応募した人がいて、びっくりしたわ」
「へえ、面接するためにわざわざ日本から来たんですか、その人?」
「まさか。電話で面接したのよ」
「そうですか。そうですよね。ウイットラム大学みたいな小さな大学で、面接だけのために航空運賃なんて出せないでしょうね。オーストラリアの大学はどこも資金繰りが苦しいから」
「そうね。アメリカとは随分違うわよね」
「アメリカの大学は出すんですか?」
「私の友達なんて面接に呼ばれただけで、夫婦の航空運賃を払ってくれたって、言ってたわ」
「へえ、アメリカの大学はお金があるんですねえ。羨ましいなあ」
「そうね。うちとは大違いね」
 1時になったところで、司会役のフランス語プログラムのジョンが立ったので、おしゃべりをしていた教官も皆黙ってジョンに目を向けた。
「皆さん、お集まりいただきましてありがとうございます。今日は、フランス語のクラスで使っている教授法を披露したいと思います。今日は、作文のクラスをいかにするかについてモニークが説明します。では、モニークさんどうぞ」
 モニークはいつも学科の会議で議事録の正確性の確認をするとき真っ先に手を挙げる積極的な女性だが小柄なほっそりした金髪の30代のフランス人で、少しフランス語訛りの英語を話す。フランス語を教えているオーストラリア人のクレアはモニークのフランス語訛りの英語はとっても可愛らしくてチャーミングだなんて言っていたことがあったが、僕もフランス語の響きはきれいだと思っているせいか、モニークの鼻にかかったような訛りのある英語が好きだ。
 モニークはパワーポイントでスライドを見せながら、説明した。パワーポイントを使うのはオーストラリアの大学では当たり前のことなので、OHPしか使えない中国語のチェン教授は、同僚からも学生からも古代人のように思われている。
「皆さん、学生に作文を書かせるための動機付けがとても難しいと思いますが、学生たちに興味を持たせるために、私はこんな工夫をしてみました」
次に出されたスクリーンには、
「小説を読んで、作文を書く」
と書かれていた。
 結局、モニークの説明では、フランス語で物語を途中まで読ませて、その続きをグループに分かれて書かせるというものだった。そのメリットとして、創造性を育てる、物語を読むことによって読解力もつき、物語に出てきた単語を覚えることによって作文に使う単語を事前に学ぶことができるということだった。
 セミナーが終わって、香川と一緒にセミナーの部屋を出ようとしたら、狩野さんに後ろから声をかけられた。
「香川さん、後藤さん、今日のセミナー面白かったですね」
「そうだね。僕も今度小説でも読ませて、作文を書かせようかな」
「後藤さんは上級生担当だから、そんなことができますよね。初級ではちょっと無理ですよね」
「そうだね」
「香川さんはどう思われましたか?」
「中級にもちょっと難しいわね。小説を読ませるだけで、苦労しているわ。オーストラリア人の学生は皆話すのは得意なんだけどね、読み書きとなるとアレルギーの子が多いのよ」
「確かに英語話者には漢字って、難しいですからね」
「そういえば、この間作文を書かせたら、何が書いてあるのかさっぱり分からないのがあったのよ。こっちから読み、あっちから読みと、色々な方角から読んだら、その子、左下から上に向かって書いていたのよ」
「ええ!信じられない」狩野さんが驚きの声をあげた。
「そう、私も教師生活30年になるけれど、あんな書き方する学生に会ったのは、初めてだったわ」
「香川さん。原稿用紙の使い方、ちゃんと教えたんですか?」
香川さんを揶揄するように言ったら、睨まれた。
「勿論、教えているわよ」
香川さんと別れた後、狩野さんは真面目な顔をして僕を戒めた。
「後藤さん。あんまり人のプライドを傷つけるようなことは言わない方がいいと思うわ」
「やあ、ご忠告ありがとう。ついついね、言っちゃうんだよ。君もまだストライキのことで怒ってるの?」
「まあ、あまりいい気はしなかったけれど、後藤さんみたいな人もいるんだなと、あまり気にしない事にしたわ」
「それが、いいよ。怒るとしわができるからさ」
「それが余計なことなのよ」
 また狩野さんを怒らせたようだ。
「ところで、博士論文はすすんでいるの?」
「それは聞いて欲しくないな。この間香川さんから博士論文って書き上げたと思ってからまる一年かかると言われたけれど、本当にそうね。パートだから6年で書けばいいなんて悠長に構えていたんだけれど、まだ参考文献を読んでいる段階だから、頑張らなくっちゃ。そういう後藤さんはどんな研究しているの?」
「それは聞いてほしくないなあ」と思わず言った後、僕達は顔を見合わせて笑った。
「きのうフレデリックから、研究費の申請書を来週末までに書き上げろって言われて、研究テーマを今考え中なんだよ」
「羨ましいなあ。好きな研究ができるっていうの」
「君だって、好きなテーマで博士論文を書いているんだろ?」
「興味があったのは最初の1年だけだったわ。今はもう段々情熱を失いつつあるわ」
「それは、分かるよ。僕だって、もうアスペクトの研究なんてたくさんだって思うもの。で、君は、他にもやりたい研究があるみたいだけど、どんな研究をしたいの?」
「アイデンティティなんか興味があるわ」
「アイデンティティ?」
「そう。学生の中には、敬語なんか使いたくないっていう子がいるじゃない?」
「それと、アイデンティティと、どういう関係があるんだ?」
「敬語を使うというのは、上下関係を認めることになるから、そんなことを認めると自分のオーストラリア人としてのアイデンティティが失われると思うんじゃないかしら」
「なるほどね」
「女言葉を使うことにも抵抗を示す女子学生もいるわよね。これも、おんなじことだと思うわ」
「アイデンティティか」僕は独り言のようにつぶやいた。
狩野さんと別れた後は、また図書館で借りてきた本を読んだ。1時間も読んでいると、目が痛くなる。一休憩してお茶でも飲もうと職員室に行くと、第二言語習得を専門にするイタリア語を教えているメアリーがいた。メアリーのやっている研究を聞いて参考にさせてもらおうかと、思い立った。メアリーは背が高くてがっちりした体型をしており眉の太いいかにもごつそうな感じの人で一見とっつきにくそうだが、実際に話すと気さくな人だということを、つい最近電車の中で会って立ち話をして知った。

著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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