Logo for novels

ハンギングロック:後藤の失踪(5)

「後藤さん、来週の組合のストライキ、参加されます?」
「何のストライキ?」
「え、後藤さん、組合員じゃないんですか?」
狩野さんは驚いたように、後藤の顔をまじまじと見た。
「組合に入ってはいるけれど…」
「え、組合員なのに知らないんですか?社会学科のマクミラン教授が、うちの大学は留学生が落第点をとってもパスさせると言ったものだから、大学側から大学の名誉を傷つける発言をしたという理由でクビにされた事件があったじゃないですか」
「そういえば、そういう事件があったねえ」
メンジーズ大学の学生の20パーセントは留学生、特に中国とインドからの留学生が圧倒的に多い。オーストラリアの44ある大学のうち43校が公立の大学で、勿論メンジーズ大学も公立の大学である。公立大学は主に連邦政府からの資金で運営しているのだが、年々連邦政府からの資金が減らされていく。そういった状況なので、留学生から取る学費が収入源として重要性を帯びてきた。だからどの大学も留学生を勧誘するために、留学生の入学条件を甘くしたり、採点も甘くして簡単にパスさせるというので、社会問題になっていたのだ。
「組合はマクミラン教授を解雇するのは研究者の発言の自由を侵害するものだから、即刻マクミラン教授解雇を取り消せと要求しているんですよ。それが受け入れられなければ、ストライキをするって」
「僕は、あんまり政治的なことには興味がなくってねえ」
僕の気の乗らない返事に狩野さんはあきれたように言った。
「後藤さん。これ、我々の権利を侵害するものだと思いませんか?」
「マクミラン教授もわざわざ新聞に投書して、自分の大学の恥をさらすようなことをしなければいいんだよ。それに我々がストライキしたからって、我々の給料が減らされるだけで、大学側はそんなもの、何とも思っていないよ。だって考えてみろよ。授業のある時はともかく、学生の休みに入った今、僕達が一日大学に出てこないからって大学側が著しい損害をこうむるとは思えないよ。それにだ。授業がある時にストライキをしたとしてもだ、困るのは学生だけだよ。つまり我々は無力だってこと」
「後藤さんってすごく無気力な人なんですね」狩野はかっかとしながら言った。
「いや、無気力というより、現実主義者だといって欲しいな」
「もう、知りません」

 狩野はこれ以上僕と話しても時間の無駄だという風にぷんぷんしながら、僕の研究室を出て行った。
「やれやれ。狩野さんはいい人だけど、理想主義者で、すぐかっかと来るんだからかなわないな」と僕はぶつぶつ独り言を言いながら、コンピュータに向かった。そして、インターネットで図書館にある第二言語習得の本のカタログを調べて借りたい本のリストを作った後、図書館に行った。図書館は僕の研究室のあるビルから、キャンパスを横切ったところにある。学期中は学生で溢れ返っているキャンパスも、学生の夏休みに突入したためか、閑散としていた。図書館はエアコンが利き過ぎだと思えるくらい、夏だというのに肌寒かった。僕は本棚を眺めながら、日本語の本なら背表紙を見てすぐ本の題が分かるのに、英語の本だと縦書きが出来ないから、首を曲げて読まなくてはいけないのが厄介だと思った。日本語の本が収集されている所ではカタログの番号に頼らなくてもすぐに本を探せるのに、英語の本はカタログの番号に頼らなければいけない。一時間かけてやっとめぼしい本を5冊借りて研究室に戻ってくると、研究室の前で人影が見えた。僕の研究室の前は逆光になっていて、誰なのか見分けにくい。近づくと、去年教えた学生のキーランなのが分かった。
「おう、元気か」
 キーランは日本語の成績は余りよくなかったが、ひょうきん者でクラスを笑わせることが多く、僕のお気に入りの学生だった。
「先生、お久しぶりです」と言って、キーランは小柄な背中を曲げて、丁寧にお辞儀をした。
「まあ、入ってくれよ」と僕はキーランに笑顔を向けて、研究室に招き入れた。
「確か去年卒業したんだったよね。卒業した後何していたんだ?」と聞くと
「今年の初めに日本に行って、北海道のニセコのスキーリゾートで働いていました」
「ああ、そうだったのか。日本はどうだった?」
「楽しかったですよ。日本人のガールフレンドもできたし」
「そうか、それで、日本語が上手になったんだな」
「それ、どういう意味ですか?」
「いや、ニセコって言うとオーストラリアからの観光客が多いところだろ?外人相手に仕事をしていると普通日本語って上達しないのにさ、上手になっているからびっくりしたんだよ。特に、お辞儀の仕方がうまくなっているじゃないか」
「それって、ほめられているのかなあ」とキーランは笑った。
「勿論、褒めてんだよ。今日は何か用事で来たの?」
「いえ、クリスマスの休暇で日本から帰ってきたので、先生にご挨拶しようと思って」
「嬉しいねえ。昔の学生に思い出してもらうだけでも教師冥利につきるっていうものだ」
「冥利?」
「ああ、ごめんごめん。ちょっと難しい日本語を使っちゃったな。先生をしていてこれほどうれしいことはないっていう意味だよ」
「先生は、お休みに何をされるんですか?」
「そう言われるとねえ、あんまりいい気はしないなあ。大学の先生ってさ、高校の先生と違って学生のお休みのときは休みって言うわけにはいかないんだよ。研究しなければいけないからねえ」
「そうですか。失礼しました」
「それで、いつまた日本に行くの?」
「12月30日に帰りたいと思っています」
「ほらほら、『帰りたい』じゃなくて、『戻りたい』だろ。キーランは日本人じゃないんだからさあ。ちゃんと教えただろ?」
「先生って相変わらず厳しいんですね」とキーランは苦笑いした。
その日は僕は、結局キーランとおしゃべりした後、図書館で借りた本を20ページ読んだが、新しい研究テーマもきまらないまま、家に帰った。その週は、研究テーマを決めるために悶々とした一週間となった。


著作権所有者:久保田満里子

関連記事

最新記事

カレンダー

<  2024-04  >
  01 02 03 04 05 06
07 08 09 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

記事一覧

マイカテゴリー