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カウラへの旅(最終回)

次に中島がしゃがみこんだプレートには「Fusao Ito」と、書かれていた。
「こいつはね、とても陽気な奴で、余興には必ず出て人気者だったよ。本名はいまだに分からないけれど、国には奥さんと2歳の娘がいると言っていたよ。きっと生きて日本に帰りたかっただろうになあ」と言うと、中島は目頭を押さえた。
「Fusao Ito」の隣には、「Takeo Iwai」と書かれているプレートがあった。この岩井も中島の知り合いらしく、中島はそこにもしゃがんで、お祈りをした。
「こいつはね、足を戦争で悪くしてしまって、びっこをひいて歩いていたよ。下山が走れない者は事前に自分で身の始末をしろと言ったので、岩井は暴動が起こる前に首をつって死んだよ。岩井だけでなく、皆走れない者は、事前に自決してしまったよ」
良太は下山と言う男もその暴動で死んだのだろうと思い、中島のあとを一人ひとりの名前を見て行ったが、なかなか見つからない。
「下山っていう人のお墓は見当たりませんね」と良太が言うと、中島は、「下山か」と、軽蔑したように言うので、良太は一瞬驚いた。
「下山は死ななかったんですか?」
「うん。下山の奴、あの暴動では死ななかったんだよ。生き残っている下山を見て、憤りをおぼえたよ。皆を死に追いやって、おめおめと生きているなんて。皆の罵倒と軽蔑の視線に耐えかねたのか、奴は暴動のあった翌日、食堂の側のボイラー室で首をくくって死んだよ。だからあいつが死んだのは8月6日で、8月5日じゃないんだ。だからあいつの墓標はもっと先のほうにあるよ」
どこまでも続くように思われる墓標に良太は圧倒された。死に急ぐという言葉が良太の頭に浮かんだ。こんなにも多くの人が死に急いだのかと思うと、厳粛な気持ちに襲われた。
一人ひとりの名前を丁寧に見ていくうちに、「享年 8ヶ月」と書いてあるのを見つけて良太はびっくりした。
「赤ちゃんも捕虜になっていたんですか?」と、中島に聞くと、中島は
「ああ、それは捕虜じゃなくてきっと収容所で生まれた、抑留された人の子供だろう」
「収容所にいたのは、戦争捕虜だけではなかったんですか?」
「そうだよ。このカウラには戦争捕虜しかいなかったけれど、ニューサウスウエールズ州には、カウラのほかにヘイという収容所があったし、ビクトリア州にはタチューラという収容所もあった。確か南オーストラリア州にもラブデイという収容所があったはずだ。その頃オーストアリアに住んでいた日本人は皆財産を没収されて抑留されたんだ。だから、次の銘板の享年をみてごらん。72歳と書かれているだろ。この人はきっとオーストラリアに永く住んでいて抑留されて、収容所で死んだ人だろうね」と、言った。
「じゃあ、この人はカウラで死んだわけではないんですね」
「そうだね。きっと死んだ後タチューラからでも送られてきたんだろう」
良太たちが、お墓の入り口のほうに行くと、まるで日本の庭園のように白い石を敷き詰めたところに大きな石灯籠があり、石灯篭の前にある大きな鏡石には、「Japanese War Cemetery」と掘り込まれていた。
お墓の入り口の前で中島と別れることになり、良太は、中島にお礼を言った。
「中島さん、今日は色々教えてくださって、ありがとうございました。戦争があったときは、生きたくても生きれなかった人がたくさんいたんですね。僕、これまであまり戦争のことを考えたことはなかったけれど、今晩うちに帰ってゆっくりと戦争のことを考えて見ようと思います」
中島は、穏やかな笑みを浮かべて、
「僕も戦争で生き残ったけれど、生き残ったからこそ、命を粗末にしてはいけないと身にしみて思うようになったよ。君も自分の命を無駄にしないように生きてくれ」と言って、握手をするように手を差し伸べた。
良太は中島の手を握って、力強く大きく振って握手をした。
デニスは中島に、「もし、キャンベラに来るような事があれば、うちに来てください」と、自分の家の電話番号を渡して、握手をした。
中島と別れたあとは、カウラの名所と言われる日本庭園に向かった。デニスの話では、日豪の平和と友好の象徴として、日本庭園が造られたということだった。入り口にあるちょうちんには「Japanese Garden」と書かれていた。入り口の桜は5分咲きになっていて、訪問客が皆桜の木を背景に写真を撮っていた。
入り口となっている建物で入場券を買って建物を抜けて外に出ると、大きな庭が見えた。池あり、丘ありで、ずっと平坦な原野を見ていた良太は、その美しさに感嘆の声をあげた。
経路と書かれた標識に従って小道を歩いていくと、ちょっと丘のようになっているところがあり、そこにある岩の上に立ってみると、池だけでなく、小さな建物もいくつか見られた。その後庭を探索していくと、日本家屋があって、外から畳の部屋が見え、誰が弾くのか知らないが、琴が立てられていた。藤棚もあり、ちょうど藤の花が垂れ下がって、良太たちの目を楽しませた。藤棚の前には大きな池があり、鯉が泳いでいた。池には石橋がかかっており、池の向こう側に、もう一軒和風の家が見られた。盆栽を飾った小屋もあった。良太は日本に帰ったような錯覚に襲われた。また、出入り口に戻ると、日本のお寺にあるような大きな鐘があった。
「これ、ついてもいいのかな?」と、デニスに聞くと、「ついても、かまわないだろう」とデニスが言うので、良太は思い切り鐘をついてみた。「ゴ~ン」と余韻をもって鳴る鐘は、良太に除夜の鐘を思い出させた。
出入り口についていた建物には「文化センター」と書かれていて、中に入ってみると、
日本の陶器や人形、兜などが飾られ、窓ガラスからは石庭が見えた。
デニスから、「もう帰ろう」と、言われるまで、良太は熱心に展示物を見て回った。
「こんなオーストラリアの田舎町に、日本の物がこんなにたくさんあるなんて、ここに来るまで知らなかったよ」と、良太が言うと、
「来てよかったと思う?」とデニスが聞いた。良太は、デニスの顔を見ながら、大きく頷いた。
その後、デニスの車に乗って、カウラの町が遠ざかって行くのを見ながら、良太は物思いにふけった。中島に言われた事を、思い出していたのだ。
良太は周りに死んだ人を身近に見ていない。それに、今まで生きるか死ぬかと言う状況に陥ったことがなかった。だから、何となく毎日を過ごしてきたような気がする。コンピュータゲームに夢中になっている時だけが、楽しいと思える時間だった。だから一日の大半をコンピュータの前で過ごしてきた。でも、今日中島の話を聞いて、心をうちのめされた。こんなに毎日無意味に暮らしていいのだろうかと。生きたいと思っても生きられなかった時代に生まれた人達に対して、今の自分が何となく恥ずかしいような気がしてきた。何かをしなくちゃ。まだその何かが良太には漠然としてつかめなかったが、生きる意欲のようなものが心の奥底から湧き出てきた。


参考文献
Neville Meaney (2007) ”Japanese breakout from Cowra POW camp” in toward a New Vision: Australia and Japan across time pp.146-151

中野不二男 (1991)「カウラの突撃ラッパ:零戦パイロットはなぜ死んだか」文芸春秋社

Steven Bullard translated by Keiko Tamura (2006) “Blankets on the wire: The Cowra breakout and its aftermath” (鉄条網に掛かる毛布) Australia War Memorial

William Appleton(1998), 『理解』(Rikai means Understanding) A guide to the Japanese war cemetery.

高原希国((1998) 『新カウラ物語』「オーストラリアの日本人―世紀をこえる日本人の足跡」pp.86-87. Japan Club of Australia

インターネットサイト

Cowra breakout-Wikipedia, the free encyclopedia

” The Cowra Breakout” by David Hobson

Japanese Garden and cultural centre-Cowra

The centre of Japanese cultural heritage in Australia

注:「理解」には、下山としたつは、8月5日没とされている。しかし、他の生存者の証言では、下山は8月5日以降に自殺を図ったということである。

著作権所有者:久保田満里子

 

 

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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