第十一回 アンソニーの笑顔
更新日: 2010-04-15
「タコさん!」、少し前のある朝声をかけられた。もう15年ほど前になるだろうか、こちらのプラスチックの滑り台などの遊具を作る会社に勤めていたアンソニーだった。彼は、コンピューターやデータベース の専門家としてその会社で働いていた。
私は、当時日本語教師をしながら、この会社が千葉県の松戸市にある会社と技術提携をするというので、その仕事のお手伝いをしていた。松戸の会社には3年の間に8回もお邪魔した。東村山の両親も、あまり帰ってくるのでいい加減にして欲しいような感じにもなっていたようだ。
技術責任者のコリンと、このアンソニーの2人は、当時私の経営していた日本語学校(と言っても教師兼、校長兼、用務員兼の私一人の学校だったが)に日本語 を学びに来て知り合ったのだ。
コリン、アンソニーと3人で何度か日本に行った後、このアンソニーは日本の相手の会社に半年ほど長期出張をしていた。私は、アンソニーの将来性を高くかっていて、将来はこのオーストラリアの会社の中枢に入っていく人材と思っていた。
しかしコリンは時々、「彼は、ものすごくいい技術を持っているのに、やや真面目さに欠けるところがあって心配だ。」と言っていたのを覚えている。もっとも、このコリンは元厳格なキリスト教の牧師さんだった変わった経歴の持ち主で、彼からしたら私なんぞも飲んだくれの不真面目人間の典型のような者だっただろうが。日本でアンソニーと一緒に飲みに行ってだいぶハメを外してしまったことがあったからだ。
声をかけられたその朝、アンソニーは道路工夫の仕事をしていた。交通規制のサインを手に持っていた彼と、ちょっとの間立ち話をした。Stop とかSlow とかの標識を持って立っている仕事だ。
「あの会社は、随分前に辞めたよ。今は、気楽な仕事さ。朝は早いけど、仕事は早く終わるし。楽なもんだよ。第一、仕事はその日の内に終わるんだ。タコさん、今でも日本語を教えているのかい?ずっと教師でいてくれよ!タコさんはいい先生だよ。日本で、一緒に飲んで楽しかったな。」そんな他愛もない会話をして、5分ほどして私たちは 別れた。彼は、にっこりと笑って持っていた交通規制のサインを上げて、「また、会おう。」と言った。
私はもうその時は日本語を教えるのを止めていたが、なぜかそう言わなかった。そして、アンソニーもあんなに嘱望されていた仕事を辞めていた。
事務所に向かいながら、昔、飲ませ過ぎて、成田に向かうタクシーの中で苦しい思いをさせてしまったことを思い出した。限界を超えても飲み続けるその飲み方が気になった。ふと振り返った時には、彼はもう仕事に就いていた。
あの朝会ったアンソニーは、本当に屈託のない笑顔が自然な生き生きとした青年のように私には映った。一緒に仕事をしていた時には見せなかった笑顔のように思えた。
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