政変!!ジュリア・ギラード豪州首相就任の秘密と背景
ケビン・ラッド辞任 豪州政界になにがあったのか?
2010年6月24日掲載
オーストラリアに新しい首相が誕生。
しかもオーストラリアの歴史上、初めての女性首相。
ジュリア・ギラード48歳。 英国生まれ。メルボルン大学出身。
ケビンラッド労働党政権ではオーストラリア与党労働党の副首相。
オーストラリアの与党労働党は、6月24日(木)未明に、議員総会を開いた。
現在の党首(首相)ケビンラッドが辞任を表明。
副党首(副首相)のジュリア・ギラードが新党首に就任。
新党首のジュリア・ギラードは、24日(木)午後、第27代オーストラリア首相に就任。
ジュリア・ギラードを中心にして、写真左は、ビクトリア州首相ジョン・ブランビー、右は、ビクトリア州総督Dr David de Kretser
ケビンラッド元首相は、政策上の失敗が相次ぎ、5月に入って支持率が急落し、進退を迫られていた。
一部の労働党有力議員からケビンラッド首相では次の総選挙は勝てないと強い批判の声が出ていた。
その後釜として、一番候補は、副首相のジュリア・ギラードであった。
自由党のトニー・アボットも世間での人気が高く、政権を奪回するのか、注目されていた。
6月に入って、ジュリア・ギラードが首相に立候補するのではないかという強い観測がマスコミで流れていた。
一方で、ジュリア・ギラード本人が観測を強く否定する姿がお茶の間の話題になっていた。
24日未明の議員総会により党首選挙を行うと見られていた。
その場合、ケビンラッド首相の不利がうわさされ、ジュリア・ギラードが立候補するかどうかが23日からの焦点と見られていた。
結局、選挙による落選を恐れたケビンラッドが自ら辞任を表明。
その瞬間に自動的にジュリア・ギラードの新党首就任が決まった。
今回の政変の背景とポイント
1.移民対策、資源会社への無理な課税など、ケビンラッド政権の失策が続いた。
政財界への根回し不足も指摘される。
2.国民の信頼を失い、支持率が急落した。
もともと、国民の人気、支持によって首相になったような人物であり、支持率低下は致命的。
3.労働党内部で、不協和音が目立ってきた。ケビンラッドは、労働党内部で、右派のリーダー。
左派からの突き上げに右派が対応できなくなってきた。
左派の中で、ジュリア・ギラードは穏健派ではあり、右派もジュリア・ギラードを支持するグループが増えた。
今回の政変劇の成り行き
1.24日の午前までに、労働党左派でジュリアギラードは政権奪取の気持ちを決めた。(本人談)
2.労働党で党首選挙の準備が進められた。
この時点で、ケビン・ラッド辞任、ジュリア・ジラード新党首の工作が進められ、左派のみならず、右派の理解も得られた。
3.ケビン・ラッドとジュリア・ギラードで選挙対策の会談が行われた。
4.24日夕刻ケビン・ラッドは、党首選挙に勝ち目はないことにより、辞任を決定。
5.24日午後7時過ぎにケビン・ラッドは、辞任を発表した。
******ジュリア・ギラードの主な経歴********
ジュリア・ギラードは、現在の労働党政権でケビン・ラッド(Kevin Rudd)首相のNo2である副首相(Deputy Prime Minister of Australia)を務めた現役、政治家。
明確でわかりやすい弁舌と聡明な回答、美貌でお茶の間の人気を集める。
女性で、副首相になったのは、オーストラリア史上初めて。
選挙区は、ビクトリア州。
英国ウェールズ出身。48歳。
5歳の時に、両親と共に英国からアデレードへ移住。
1986年、メルボルン大学法学部を卒業し法律事務所で弁護士として勤務。
メルボルン大学時代に、オーストラリア学生組合の幹部となり、労働者運動など左翼組織の幹事長を務める。
1996年から1998年までビクトリア州野党党首ジョン・ブランビーの下で州代表を務める。2007年の総選挙労働党が勝利。2007年12月にケビン・ラッド政権が発足した際に、副首相に就任。同時にスーパー大臣として教育大臣、労働大臣を兼務。
ケビン・ラッド首相を凌ぐ人気。
関連情報
ジュリア・ギラード Wikipedia(日) Wikipedia(英)
ケビン・ラッド Wikipedia(日) Wikipedia(英)
The Age The Australian Herald Sun
写真は、今年4月25日(日)アンザックデーANZAC DAYの際に、メルボルン市 プリンセス橋を渡った場所にて。セントキルダ通り
(撮影:板屋雅博)