第二十ニ回 メルボルン、街のカフェで皿洗いをしていたころ
更新日: 2011-09-05
「タコ、水曜日の夜、時間あるかい?クラブに行こう。楽しいぜ、良い女が沢山いるんだぜ。」同僚のミルトンというギリシャ系のオーストラリア人から誘われたのだ。1985年の9月、私はメルボルンの街中のカフェでバイトをしていた。
ミルトンは、背が低くお世辞にもいい男とはいえない感じで、しかも女性に対してはキツイ嫌味ばっかり言っているので全く人気がない。しかし、私に対してはすごく親切に接してくれていた。
その夜、ミルトンは私を、飲んで食べて 踊れるクラブに連れて行ってくれたのだ。結構、いい料理も出るし、しかも安い。10人編成くらいのバンドの生演奏もある。30代、40代、そして50代の人が多く来る所で子供はいない。ディスコのオトナ版といったところだ。
でも、私は得体の知れぬ大柄なアジア人、英語も覚束ない。なかなか、話しかけられない。一体、何を話したらいいんだ?天気の話でもしろというのか?私は日本人ですって言えばいいのか?それがどうした、って言われたら後が続かない。それもそうだ。因みに、いろいろなパーティーでまったく知らない人と話さないことが多い社会だが、未だにやや苦手ではある。
ミルトンは、いろいろな人に話しかけてダンスに誘って、そのたびにあっさり断られていた。私は、結局、誰とも話せずにカウンターでハイボールを飲み続けていた。不甲斐ないギリシャ人と、場違いな元相撲取りのようなアジア人とで空元気を出して酔って騒いで帰ってきた。
ミルトンは、口ほどにもなく誰とも話したり踊ったりすることができなかった自分自身を恥じているようでもあっ た。因みに、ギリシャ人は昔世界制覇したとかいう歴史に負けまいとして傲慢にふるまっているように見えなくもない。
次の週、ミルトンは私をバララットの金鉱山へ連れて行ってくれた。それは、それで楽しかったが、なんだかミルトンの笑顔が本当は泣いているように見え始めて心から楽しむことができなくなってしまった。職場では皆にわざと嫌われるようないじけた態度で通していたし、女友達はおろか男の友達もいないようなそんなミルトンの姿が痛ましく見え始めてしまった。
それから、2週間してわたしは急に仕事を辞めないといけないハメになり、そのカフェを後にした。そして、それ以来ミルトンとも会わなくなってしまった。
このカフェが、私のメルボルンの原点だったと言える。14,5歳の若いバイトのオージーと毎日毎日皿を洗っていた。移住を求めて歩き出した第一歩の場所だった。実はこのカフェは、2,3年前までずっと街中にありたまにランチに行ったりしていたが、ビルの改造があって残念ながら取り壊されてしまった。行くと必ずキッチンからあのミルトンが出て来てくれて、「タコ、飲みに行こう!」と言ってくれそうな錯覚をおぼえた店だったが、もう跡形もない。
私のメルボルンの形で触れる想い出がまた一つ無くなってしまった。
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