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小説版バイリンガル子育て 第4話 『家庭内留学』

 家にいる時の会話の全てを英語にすると決めてから数日が過ぎた。慣れない毎日の中で僕も彼女も疲れ果て、新太郎が時折見せる笑顔だけが唯一の心の支えだった。

 それにしても彼女はよく英語での生活を決意したと思う。まだ僕らが結婚する前に、彼女から英語を本気で勉強したいと頼まれた事があった。そして僕は、3日間僕の家に泊まり込みで英語しかしゃべらないで過ごす『合宿』をしようと提案した。意気揚々と僕の家に乗り込んできた彼女だったが、次第に口数が少なくなり、初日の夜には泣きながら「もう勘弁して下さい」とギブアップ宣言をして『合宿』は終った。それから彼女が英語について語る事は無かった。当然彼女だってその事は覚えている筈なのに、これが母性というものなのか、この数日間は泣き言を言わずに過ごしている。

 僕の仕事は中古CD屋なのだが、数年前からバイトを雇わずに一人で店番をするようにしたので、基本的に仕事中はお客さんへの対応「いらっしゃいませ」「○○円になります」「○○円お預かりします」「○○円のお返しです」「ありがとうございました」だけしか口を開く事が無い。そして家に帰れば英語生活。15歳でメルボルンに渡り、ホームステイを始めたばかりの事を思い出した。毎日英語が飛び交う生活の中で、僕は疲れて随分早く寝ていたと思う。英語が全くしゃべれなかった当時と今では英語力は違うけど、当時は学校で日本人の生徒と日本語で会話をしていたので、生活の中で英語が占める割合は今の方が多い。

 彼女は彼女で、新太郎がまだ小さいので公園デビューもしていないし、時々出かけると言ってもスーパーに食材を買いに行く程度だった。日本語に触れられるのは、たまに友達が遊びに来る時、買い物に出かけた時、そしてテレビの中からだけだ。これが留学生であれば、ホストファミリーには"Hello""How are you?""Good thanks."と言って、自分の部屋に閉じこもって、インターネットをしたり、日本語のDVDを見れば良いのだが、もちろんそんな事では、新太郎が英語を耳にする機会が少ないので、努力して会話をしなければならない。この家庭内留学は普通の留学よりも遥かに厳しいのだ。

"I'm home(ただいま)"
「おかえり」
"I'm hungry. What's dinner today?(腹減った。晩御飯は何?)"
「今日はカレーだよ」
"That sounds yummy!(おお、いいね!)"

 この程度の会話はスムーズにできる。しかしその次のステップがとても難しい。例えば、「今度の火曜日は休みだから、俺はサッカーしに行くから、夜はチームメイトと飲みに行くんで晩御飯はいらない」と言うにしても、"Next Tuesday, I will have a day off. I will play soccer with friends and go out for drinking with them so I don't need dinner"と26語もかかる訳で、英語が全くわからない彼女からしたら、『<火曜日><サッカー><ディナー>を使って文章を作りなさい』というクイズをしているようなものなのである。そしてそれは僕にとっても問題で、彼女が「わかった」とシンプルに返事をしようものなら、本当にわかっているのかがわからないのである。したがって、彼女が僕に今の会話を理解しているよと証明する為には、「わかった。今度の火曜日サッカーで夜飲みに行くからご飯いらないのね」と言わないといけないのだ。つまり四六時中「さて問題です。この英文を日本語に訳しなさい」と問題を出され続けているのである。

 とは言っても、やはり毎回日本語訳を答え続けるのもしんどいので、時折彼女は「うん」で済ます事もあるし、僕もそれでよしとする事もある。そして勘違いで何も伝わっていない場合や、真逆に伝わっている場合は大ゲンカへと発展するのだ。ケンカになっても、新太郎が近くにいる限り僕は英語で怒るので、彼女も訳がわからず全く収拾がつかない。それを何度か繰り返しているうちに、勘違いがあった時には辞書を使ったり、筆談で説明をするようになった。このような怒涛の数日間を過ごして、バイリンガル育児の最初の土台のようなものができたのである。

 息子が3歳8ヶ月になった今でこそ、ここまで徹底しなくても子供をバイリンガルにできると言えるのだけど、この時はまだ手探り状態だったので必死だった。僕はともかく、たった半日の英語だけの生活で泣いていた彼女が、家庭内留学を実行し、現在もまだ留学し続けているのは「母は強し」としか言いようが無い。(つづく)




※読者の方からの質問や応援メッセージ大歓迎です。コメントお待ちしております。

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書籍化された僕のブログ→イタリア人は日本のアイドルが好きっ
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コメント

以前のコメント

もん   (2010-02-13T07:59:33)
初めまして。 本当にあった出来事なのに、小説みたいでとても読みやすいです(・ω・) そして面白いです。これからも楽しみにしてます。

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プロフィール

高橋正彦:1977年、静岡県浜松市生まれ。中学卒業後、単身メルボルンに渡りブライトングラマースクールに入学。同校では、3年がかりで学校側に打診をしサッカー部を創立、初代キャプテンを務める。1998年中古CDショップ「音吉プレミアム」を立ち上げ、世界中の人達との交流を始める。2007年9月、単行本『イタリア人は日本のアイドルが好きっ』を出版。2009年5月には世界中のオタクと交流するOTAKU SPECIALISTとして、NHKから英語でインタビューを受け、その映像が世界80カ国で放送された。

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