Logo for bgsgeek

中国旅行記2010-中国でも田舎と言われる丹東で見た真実-

10月5日から9日まで中国に旅行に行ってきた。

東京にいた時の新太郎の友達のともちゃんのママが中国の人で、中国に2ヶ月半里帰りに行くから遊びにおいでと言われて遊びに行ったのだ。

女房子どもは10月2日から行っていたのだが、僕は仕事の都合で3日遅れの一人旅になった。広島空港から2時間で大連に到着。そこからタクシーで3時間30分で目的地の丹東(たんとう)には夕食前に着いた。

子どもたちは3日間ですっかり慣れていて、久しぶりにあったともちゃんとも昔のように遊んでいた。(写真左:左から由莉杏、新太郎、ともちゃん、ともちゃんの従姉妹のトワトワ) ともちゃんのお父さんも前日に到着していて、賑やかな生活が始まったのである。




夕食は中国ではよく食べる辛い鍋を作ってもらった。野菜にイカ団子や牛の内臓を入れた鍋で、ゴマ油に塩、ニンニク、パクチーを入れたタレで食べる。これが美味しくてビールが進む。中国の食事を楽しみにしていた僕にとっては幸先のよい旅の始まりだった。



この時は、翌日から色々なものを見てカルチャーショックを受けるなんて思いもせず、中国最初の食事を楽しんでいた中国初日の夜であった。



翌日の朝4時過ぎ、気持ちよく寝ている僕の耳に飛び込む車のクラクションの音。「ブーーーッ」「ブッブーーー」それも一つじゃない。ほとんど途絶えることなくクラクションは鳴り続けている。あまりにうるさいので起きて窓から外を見てみると、車、バイク、自転車、人がせまい道路に入り乱れ、我先と前に進もうとしていた。人が渡っていても関係なく車はクラクションを鳴らして突っ込んでくるし、人も人で車が来ても知らん顔。このクラクションは夜になるまで鳴り続けた。何をそんなに急いでいるのか知らないがせっかちにも程がある。



「うるさいでしょ、朝市が毎日あるの」

ともちゃんのママが起きてきて教えてくれた。確かによく見ると、道路の脇に果物や野菜が並べられている。そして、道路から突然「ギャァァァーッ」と断末魔が聞こえた。羊の首がはねられていたのだ。今殺されたのは本日2匹目。1匹目は既に毛皮と肉に分けられて売られている。




うるさくて寝ていられないので、6時過ぎには外に出た。朝市を見ながら歩いていると、今度はチンドン屋のような音がする。音の方に行ってみるとそこには上空に伸びたいくつもの旗に囲まれた鼓笛隊がマーチを演奏している。



最近この界隈の開発が急激に進んでいて、高層ビルが建てられたので、そこの入居者やテナントとして使いたい人を募る宣伝らしい。道を歩く人の貧富の差も激しそうだ。たまに携帯電話でメールをしている人もいるし、薄いボロに身をまとった浮浪者のような人も少なくない。そして街並みは一部を除いて埃まみれで汚い。

ここは中国の田舎町 丹東。北朝鮮に隣接する国境の街である。

とりあえず朝食を食べようと、その辺の店に入ってラーメンとビールを注文してみた。中国のビールはアルコール度数も4%くらいで苦味が少なくほとんど水のようだ。待っている間に店内を見渡すと醤油がコーラのペットボトルに入っていて不安が募った。そしてラーメンがやってきた。スープは牛の骨で出汁をとっていて臭みもなく上々だ。麺も自分で打っているようで少々太いがコシがあって悪くなかった。しかし長い。新太郎の器に入れてやろうと思ったのだがなかなか途切れない。立ち上がっても結局無理だったので箸で切ってよそってあげた。




中国最初の外食はなかなか満足のいくものだった。元気になって更に散策を続けると食料品のマーケットがあった。入ってみると肉、野菜、惣菜、パン、揚げ物など色々なお店があって楽しそうだ。しかしそこは流石中国、鶏がそのままで並べられていたりして子どもたちはちょっとビビッていた。でも実際に生き物を殺して食べているという実感が沸いたようで、これで簡単に残したり、食べたくないと言わなくなればいいなと思う。



食料品のマーケットで夜のつまみ用に豚足や鳥の足を買った。中国の通過は元(げん)。僕らが行った時には1元が12円だった。中国の物価は基本的に日本の5分の1くらいだった。ビールがスーパーで1本40円くらい、日本だと200円くらい。ラーメンは100円くらい日本だと600円くらいか。

おもちゃ屋さんも見つけた。どっかで見たようなでもちょっと違うおもちゃが数多く並んでいた。そこで新太郎にねだられたおもちゃを見て驚愕した。なんとあの「きかんしゃトーマス」が合体してロボットになるのだ。なんて自由な発想なんだろう。そして万が一訴えられた時のためか、トーマスのスペルが"THOMAS"ではなく"TOMAS"になっている。これだけで全くの別物だと言い張るつもりか。言い張るだろうな。ちょっと周辺を散策しただけで、なぜ世界中にチャイナタウンがあるのかわかった気がした中国2日目の朝であった。




散策を終えて一旦友達の家に戻って、今度はタクシーでこのあたりで有名な観光スポットに連れて行ってもらった。鴨緑江断橋という橋なのだが、なんとこの橋が北朝鮮に繋がっているのだ。橋が2本架かっていて、右側は戦争でアメリカ軍に爆撃されて壊されていて修復されておらず、北朝鮮まで数十メートルくらいまで歩いて近づける。左側の橋はちゃんと繋がっていて、パスポートやビザがあれば行き来できるらしい。そう言えば丹東の街では多くのハングル文字も見かけた。朝鮮系の住民も多いと、ともちゃんのママが教えてくれた。

すぐ下の写真の僕のピースサインの辺りが、橋が途切れているところで、次の写真がそれを拡大したものだ。森の中に観覧車がポツンと建てられている。更にその下の写真は橋の中国側の入口。








写真を撮っている僕らに観光案内のおばちゃんが話しかけてきた。100元(1200円くらい)で遊覧船に乗れて、その船で北朝鮮の川岸まで行けるというのだ。しかも運が良いと北朝鮮人が出てきて、お金や食べ物、タバコをあげると喜ぶのだと、まるで運が良いとカンガルーの赤ちゃんがポケットから顔を出しているのが見れますよ、と言う動物園の飼育係のような笑顔で言うのである。おばちゃんの持つパンフレットには遊覧船の観光客にものをねだる北朝鮮人の写真が載っていた。聞くと北朝鮮では10元(120円くらい)が1か月分の給料だと言う。日本と比べると100倍以上の経済格差があるのだ。これは昔の見世物小屋のようだ。でも人に笑われて見下されても金がもらえれば当の本人たちにとっては願ったり叶ったりなのかも知れない。ということはこの遊覧船に乗って北朝鮮人にお金をあげることが人助けになるのだろうか。僕はなんとなく頭が痛くなってしまい、船にも乗らず橋も渡らずにその場所をあとにした。

その後、橋の近くの公園で子どもたちを遊ばせていると、何人もの人がともちゃんママに、なんで子どもがたくさんいるのだと聞いてきた。中国では一人っ子政策で一組の夫婦の間に一人しか子どもを作ってはいけないことになっている。しかし違反しても高額の罰金を支払えば二人以上の子どもを持つことができるので、僕たちは大金持ちだと思われていたのだ。道を歩いている子どもの鼻に薬を染み込ませたハンカチを当てて意識が遠のいたところを誘拐するという事件も多くあるらしい。大金持ちに見える僕らは格好の標的である。セレブがパパラッチから子どもを守る気持ちが少しわかった気がした中国2日目のお昼前であった。

中国2日目の昼食は中華料理のレストランに行った。友達の家の近所の汚い食堂に比べれば、だいぶ上品な感じのレストランだったが、日本の基準で言えばこれでも衛生的にアウトというレベルだった。食事は口に合わないものも少しあったけど、概ね美味しく食べた。大人5人、子ども5人で、写真の倍くらいの料理とビールを頼んで料金は日本円で3500円くらいだった。安い。食事に関してはとにかく安い。




一同満足してタクシーで家に帰ろうとしたら、ともちゃんの従姉妹のトワトワが新太郎と一緒にタクシーに乗りたいと言ってママとは別の僕らのタクシーに乗ってきた。新太郎も満更ではないようで僕の隣でトワトワの肩を抱いている。写真を撮ったら芸能人のニャンニャン写真のようになってしまった。



友達の家に戻って再び散策に出かけた。食料品マーケットで北京ダックにするようのアヒル丸ごとと、包む生地、ミソのセットを買った。値段は60 元、日本円で720円くらいだ。アヒル丸ごと日本で店で食べたら2,3万円取られるだろう。財布と相談せずにつまみが選べるのは本当に素晴らしい。

つまみを買った帰り、靴やかばんを売っている店の前になぜか、デパートの屋上とかにありがちな乗り物があって、新太郎が乗りたがったので乗せてやった。1回1元(12円)。新太郎は偽ドナルドダックに颯爽と乗り込んでコインを入れた。

すると大音量で音楽が流れ、乗り物が揺れ始めた。「こ、これはっ!」なんとBGMには日本人なら誰もが知っているあの曲が使われていた(どんな曲かは是非動画で確認してください)




日本から安く持ってきたのだろうか?こんなものわざわざ持ってきて、1回12円しか取れないんじゃ輸送費の元を取るのにどんだけかかるんだ?そして乗り物は3分経っても止まる気配をみせず、車酔いしやすい体質の新太郎はヘロヘロになってきている。中国の田舎で大音量で流れる日本の曲を聴きながら、自分がいつの時代のどこにいるのかよくわからなくなってしまった中国2日目の夕方であった。

この日の夜は、買ってきた北京ダック、豚足、鶏の足、チャーシューなどに加えて、茹でた渡り蟹も出てきた。1杯50円くらいだそうで、僕は8杯も食べてしまった。北京ダックも美味いし、鶏の足も良い味付けが施してある。これで好きな酒が飲めればパラダイスだ。




しかし残念ながらここ丹東では飲む酒があまり選べない。水のようなビールか、甘ったるい焼酎のほぼ2択。赤ワインを買ってみたら半分酢になっていた。それに氷が無い。スーパーとかには無いし、家の冷凍庫もなぜか冷たくならないように設定してあって、食器棚として使われていた。氷さえあれば甘ったるい焼酎もだましだまし飲めるのだが... そう思いながらも水のようなビールを流し込んでいると、「ドン、ドドドドドドドドーン!」「バチバチバチバチバチーッ!」とすごい音が鳴った。戦争か!?


「あー花火が始まったよ!」




緊張して体を強張らせている僕に、ともちゃんのママが楽しそうに教えてくれた。今日はちょうど花火大会の日だったのだ。家の窓から見上げると確かに花火が見えた。でもなんか距離が近い。それもその筈、花火はマンションのすぐ下から打ち上げられていた。最初は中国で花火が見れるなんて、今年の夏は花火大会に行けなかったらからラッキーなどと思って皆で見ていたのだが、これまた音がうるさい。花火と言うよりも爆竹の音に近い。それが延々30分以上続いたので、泣き出す子どもたちも出てきてしまった。

僕は最初の10分くらいで飽きてしまってすぐに居間に戻っていたのだが、あまりに長いのでもう一度様子を見に行った。するとあたりは煙だらけ、きれいとか汚いの問題を通り越して外にいる人の安否が気になる程であった。目の前のマンションなんて少し傾いて崩れ落ちそうである。




人も車も乗り物も花火もとことん大音量、パワフルチャイナ2日目の夜であった。

中国3日目、この日は世界最大の壁、ザ・グレイト・ウォール・オブ・チャイナこと万里の長城に登った。彼女は万里の長城を今回の旅行の一番の楽しみにしていたのだが、僕は急に行くことになったので、丹東に何があるのか全く予備知識なしに行った。その為、万里の長城と聞いて一生懸命に遠い昔中学生のころの社会科の授業を思い出したのだが、「世界一長いホニャララ」としか思い出せなくて、なんとなく「世界一長い橋」なんだと決め付けていた。おまけに武藤敬司とグレート・ムタと同じように、万里の長城とシルクロードは同じだと思っていたのである。

僕らが行った場所は、万里の長城の東端で「虎山長城」と呼ばれていて、それまでは別の所が東端だと思われていたのだが、専門家の学者らによる実地調査で1990年にここが東端だと認定された。このことにより万里の長城は一気に2500キロメートル近く記録を更新したのである。それを機会に700 メートル程の長城を修復し立派な観光地になった。20年前に修復されて甦ったばかりということで、最初は子ども騙しな感じかと思って期待していなかったが、なかなかどうして歴史ロマン溢れる長城だった。




石で作られた蛇のようにうねった長い道が続いている。修復された箇所の頂上までは約700メートル。アップダウンがはげしく、時には梯子に近い階段を登らなくてはいけない。新太郎とともちゃんは歩いている僕らの前を走って行ったりきたりして無駄な体力を使っている。「はしゃいでいると途中で疲れて動けなくなるよ」と言われたのに無視をした結果、案の定7分目くらいでともちゃんが疲れたと言い出した。普段は腰抜けチキン野郎の新太郎だったが、ともちゃんの前だからか泣き言を言わずに登り続けている。それを見たともちゃんもママと一緒にゆっくりと後に続いた。



そして出発から1時間あまり、とうとう長城の頂上に辿り着いた。そこからの景色はダジャレのひとつも言いたくなるくらい感慨深く、そして最後まで登りきった新太郎の顔は誇らしげだった。



頂上での新太郎インタビュー動画はここをクリック

万里の長城の頂上を制して夢心地の僕たちであったが、後ろを振り返れば1時間かけて来た道をそっくりそのまま戻らなければならないことを思い出し、一気に現実へと引き戻された。10分程の休憩を取った後、再び立ち上がって重い足取りで復路に臨んだ。

時間的には下りなので行きよりは遥かに早く着きそうだが、山登りは下りの方が体への負担は大きい。体重分の衝撃を地面から歩くたびに受け続けるので膝に負担がかかるのだ。新太郎とともちゃんは行きと同じテンションで相変わらず走り回っていたが、ママ二人にとっては、普段の運動不足と出産後にベストまで戻りきっていない体重の衝撃で辛い帰り道となった。そしてこの僕にとっても、出産後にベストまで戻りきっていない体重などとここで書いてしまって、彼女に怒られないだろうかという恐怖との戦いが始まったのである。

とにかく40分程で虎山長城(万里の長城の東端の名称)の入口まで戻ることができた。すると入口にある建物の前で中国の昔の貴族の衣装を着た人達が写真を撮っていた。ともちゃんのママに聞いてもらったら、10元(120円)で衣装が借りられるらしい。せっかく来たので記念に僕たちも秦の始皇帝気分に浸ってみることにした。

残念ながら由莉杏のサイズは無かったのだが、都合よく寝ててくれたので、残りの5人でコスプレをした。新太郎とともちゃんはとてもよく似合っていて本当に昔にこんな子たちがいたのかもと思わせるほどだった。僕も新太郎と同じ衣装を身に着けてみた。2000年以上前からタイムスリップしてきた貴族のような気分になった。日本語と英語を話す僕と新太郎と、日本語と中国語を話すともちゃんとママと、日本で生まれてインドに子どものころ数年住んでいた彼女が、東京で出会い、今ここに一緒にいることが物凄くロマンチックなことに思えた。中国に来て本当によかったと心から思えた中国3日目の昼下がりであった。








万里の長城から戻ったあと、女たちは買い物に出かけてしまったので、近所の広場に新太郎と由莉杏を連れて行った。僕たちがシャボン玉で遊んでいると、幼稚園児くらいの子どもたちが集まってきて新太郎が吹いたシャボン玉を捕まえようとして遊びだした。お互いに言葉は通じないけど、時々一緒に笑ったりしている。それを見ていたおばさんが僕らに近寄って笑顔で何かを言って由莉杏の頭を撫でてくれた。

この旅行記では中国の危険な部分や日本と違う部分を多く書いてきているが、こんな風に平和な時間もあったし、やさしい人たちもたくさんいることを声を大にしてお伝えしたい。もちろん国ごとに統計をとれば色々な傾向は出てくるが、結局はその人その人の問題だ。今たとえ中国人が嫌いな人も、新しく中国人と会う機会があったら、その人を見て判断して欲しい。頭でっかちな差別を無くすことが世界平和への第一歩だと僕は思っている。

この日の晩御飯、メインはともちゃんのママの妹が作ってくれた四川料理で使われる秘密の調味料で作ったハマグリの酒蒸しのようなものに、豚足、鶏の足、チャーシューなどお気に入りのつまみで一杯やった。このハマグリの料理が最高に美味しくて写真のボールの半分以上食べてしまった。甘ったるくて45 度もある焼酎が少し旨いと思えるようになってきた中国3日目の夜だった。




翌日、午前中からタクシーで丹東の駅周辺に出かけた。日付が変わった午前2時には迎えのタクシーが来て空港に向かうので、実質この日が中国最後の日となった。街中に出ると、友達の家の近所のような汚さが影を潜め、比較的きれいな建物が多く立ち並んでいた。

僕はドイツ人の友人から中国からポストカードを送ってくれたら嬉しいと頼まれていたので、郵便局で絵葉書を買って、その場で手紙を書いた。手紙を出す前に記念に写真を撮った。僕の顔はいつのまにか妙にツヤツヤしていた。きっと毎日コラーゲンたっぷりの豚足などを食べているせいだろう。郵便局は東京の中野区の本局に似た雰囲気で、なにか懐かしささえ感じるきれいな建物だった。おだやかな気分で窓口に絵葉書を出しに行った時、事件は起こった。僕が心を込めて友達に書いた手紙を、女の郵便局員はスタンプを「バーン!」と押したあと、まるでフリスビーでも投げるかのフォームで1メートル先のコンテナに投げたのだ。ぼくの絵葉書は縦になっていた。




郵便局を出た後、僕たちは丹東駅へ行った。広々とした公園が併設してありたくさんの噴水が設置されていてとてもきれいな場所だった。駅前にはその辺のビルよりも大きな毛沢東(もうたくとう)の石像が建っていた。僕はすかさず新太郎と由莉杏と共に同じポーズを決めて写真を撮ってもらった。石像の人物を「やっぱ鄧小平(とうしょうへい)って英雄なんだね」と言ってともちゃんのママにきょとんとされたのはこの5分後である。



時計が12時を回り、毛沢東に「再見!」と別れを告げた僕らは、お昼ごはんにマクドナルドに行くことにした。この旅では色々なものを日本じゃありえない格安価格で食べてきた。世界中に店舗があるマクドナルドが中国ではどうなっているかとても気になったのだ。きっとハッピーセットなんか50円くらいなんじゃないか、ビッグマックは30円なんじゃないか、もしそうなら2個食べちゃおうかな、そんな期待を抱きながら店内に入った。見た目は日本のマックとほとんど変わらない。でも中国でこれまでに見てきたものと比べると、信じられないくらい清潔感が漂っていた。実際このマクドナルドのトイレが中国で入った一番清潔なトイレだった。

メニューを見ると、日本では見かけない細長い「グリルチキンサンドイッチ」というバーガーがあったのでそれを頼んだ。味はなかなか美味しくて値段は150円くらいだった。ほかのバーガーの値段も120円から200円の間くらいで、思っていたよりも遥かに高い。バーガー1個のお金で、その辺の食堂でチャーハンが3人前食べられる。中国ではマクドナルドは贅沢品なのだ。




昼食後、女たちが買い物に消えていったので、僕はともちゃんパパと一緒に子どもたちの面倒を見て、夕方ともちゃんママの実家に戻った。中国最後の食事はともちゃんママの家では定番のセロリ餃子だった。セロリ独特の臭みはほとんどなく、くどくないのでいくらでも食べられる。つまみにはともちゃんパパがその辺の露店で鉄串に羊の肉を刺して焼いたのを買ってきてくれた。この鉄串をそのまま網に乗せて焼いているので、当然鉄串はかなり熱くなる。でも焼きたての方が美味しいので、みんな鉄串を横にしてかぶりついて、口の横に火傷を作ってしまうらしい。



この日も水のようなビールを大量に飲んで、お世話になったともちゃん一家にお礼を言って、タクシーが来る午前2時まで仮眠を取った。

午前8時。僕たちは大連の空港にいた。もうすぐ飛行機に搭乗する。僕にとっては5日間、彼女と子どもたちにとっては8日間の中国旅行だった。新太郎がともちゃんと一緒に買った肉まんを頬張りながら、ともちゃんやトワトワにさよならも言えずに目が覚めたら空港にいたことを悔いている。「また会う運命ならまた会えるさ」。僕はいつでもそう思っている。自分の殻に閉じこもらなければ、会える人にはまた会えるものだ。




これまで中国と言えば中華料理、雑技団、バッタもんの数々、ラーメンマンくらいしか知らなかったが、今回縁があって行くことになった。当初僕がイメージしていたように、街は猥雑で、人々は大声で話し、胡散臭いものがたくさんあった。だけど、僕が想像する以上に壮大だった万里の長城、時折触れた人々のやさしさ、飾り気は無いけど美味しい露店や定食屋での食事など、素晴らしいものもたくさんあった。

いまだにタバコを吸う男がカッコイイとされているようで、カッコつけてタバコをくわえて女と腕を組んでいる男を筆頭に、くわえタバコ、歩きタバコがかなり目立った。そういう雰囲気も含めて80年代の日本のような感じが随所にあって、僕が幼稚園児だったころを色々と思い出した。チェッカーズとかおニャン子クラブとかが流行っていたあのころ。そう、元気だったころの日本。

中国は今元気なんだろうと思う。きっとこれから経済がもっと成長して、街はどんどんきれいになって、タバコは分煙されてと色々変化が起きてくると思う。なんとなく歴史の節目に立ち会った気がしている。何年後かにまた中国に行ったら全然違うんだろな。その時僕はどうなっているか、パワフルな中国に負けないように僕は僕の道を進もうと思っている。(おわり)


※読者の方からの質問や応援メッセージ大歓迎です。コメントお待ちしております。

日本初の本格英語子育てマニュアル→子どもがバイリンガルになる英語子育てマニュアル
僕の会社です→メモリアルCDショップ音吉プレミアム
書籍化された僕のブログ→イタリア人は日本のアイドルが好きっ
英語で日本のサブカルチャーについて書いているブログ→ROAD TO OTAKU



コメント

以前のコメント

qawsedrf   (2013-05-23T01:43:04)
80年台の日本だったら今と街の綺麗さは今と変わりないだろう。 むしろ今程どこぞの三等国家の連中が流入してるのが少ない分綺麗だったやもしれん。 戦時中や戦後の40年台から50年台くらいの日本だろう。 今の中国は。
梅   (2013-02-17T02:36:11)
私は中国人です。 客観的な文章だと思いますよ。 笑いながら最後まで読んできました。 交通規則を守らず我先に進もうとする車と人、汚い店とトイレ、羊の首が刎ねられていた惨めな画面等など、中国人自身も好きではありませんよ。いつか良くなれると望んでいると共に、自分も頑張っています。
高橋正彦   (2010-10-18T08:04:24)
ysmさん、コメントありがとうございます。 そうですね。中国人も衝撃的ですが、韓国人のどうしてもマイキムチを作ってしまうこととか、年功序列が徹底しているのもすごいなと思いました。高校時代、1歳サバを読んで先輩面していた韓国人が、バレて半殺しにされていました。 カメルーン人の時間のスーパールーズさには呆れるのを通り越して笑いました。平気で3,4時間遅れてきます。 それぞれの国でお国柄があって、それに触れるのは楽しいですね。これからも色々な国を見たいと思っています。
ysm   (2010-10-18T07:28:45)
とても興味深く読ませていただきました。 中国の現実が生々しいですね。羊の頭の写真はちょっとびっくりですが、さすがという感じもします。 私はオーストラリア在住ですが、中国人の友人から受けたカルチャーショックが一番大きかったです。高橋さんはいかがでしたか?

関連記事

最新記事

カレンダー

<  2024-04  >
  01 02 03 04 05 06
07 08 09 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

プロフィール

高橋正彦:1977年、静岡県浜松市生まれ。中学卒業後、単身メルボルンに渡りブライトングラマースクールに入学。同校では、3年がかりで学校側に打診をしサッカー部を創立、初代キャプテンを務める。1998年中古CDショップ「音吉プレミアム」を立ち上げ、世界中の人達との交流を始める。2007年9月、単行本『イタリア人は日本のアイドルが好きっ』を出版。2009年5月には世界中のオタクと交流するOTAKU SPECIALISTとして、NHKから英語でインタビューを受け、その映像が世界80カ国で放送された。

記事一覧

マイカテゴリー