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アンザックデーの隠された秘密

ビクトリア・バラックスの本当の目的とは?

アンザックデーは、第一次世界大戦においてトルコ・ガリポリの戦いで多くのオーストラリア・NZ連合軍兵士が死傷した戦闘を記念している。
同時に、オーストラリアが参戦した過去全ての戦闘での戦死者、戦傷者、参加軍人を讃えている。

日本では過去の戦争を振り返ることは、タブーとなっている。
しかし歴史的な事実を知ることは、未来を考える上で非常に大切なことだ。

アンザックデーのパレードは、メルボルン・タウンホールを出発してセントキルダ通りをまっすぐに南下し、ビクトリア・バラックスの前からキングス・ドメイン公園の中へ入って戦争記念館(Shrine of Remembrance)へと向かう。
セントキルダ通りは、ビクトリア・バラックスの前で右へ曲がっている。
従ってメルボルンの中心地からスワンストン通りを経て戦争記念館がはっきりと見える。

ビクトリア・バラックスが最初に作られたのは、1850年代。
大英帝国ビクトリア植民地で金塊が発見されゴールドラッシュが始まった。
金塊を金鉱山から安全に輸送するために多くの大英帝国兵士が必要になったためだ。
基本的には、陸軍兵士の兵舎だが、ビクトリア・バラックスは、ビクトリア植民地の中心として陸海空の三軍を統率した。

 1901年に英国から独立して、豪州連邦国家が成立し、メルボルンに最初のオーストラリアの首都が置かれた。
その際、オーストラリア統一軍総司令部もメルボルンのセントキルダ通りのビクトリア・バラックスに置かれた。
1927年にシドニーとの抗争により、首都は人工都市キャンベラへ移転したが、豪州統一軍総司令部はメルボルンに居続けた。
政治と違って、軍隊や設備はそう簡単に移転するわけにいかなかったからだ。

1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。
9月3日、英国とフランスがドイツに宣戦布告。
英国連邦のメンバーで、英国女王を君主とする豪州連邦は自動的に戦闘状態に突入。

オーストラリア政府臨時戦争内閣は、統一軍総司令部があるメルボルンへ再度、移転してきた。
つまりメルボルンは、人工都市キャンベラを除くと豪州の歴史上、2回首都になったことがある唯一の都市。
シドニーなど他の都市は、1度も首都になっていない。
 

 臨時内閣は、豪州軍総司令部と一体化する必要があり、ビクトリア・バラックスに置かれた。
対日戦争の本部がメルボルンのビクトリア・バラックスであった。

1939年から豪州は多くの兵士をヨーロッパ、北アフリカ、地中海での戦闘に送っている。

1941年に日本は、米英豪に対して宣戦布告。
豪州はヨーロッパ戦線から離脱して太平洋での日本との戦いに専念。
ニューギニア、ボルネオなどで日本軍と戦い多くの戦死者を出している。

 オーストラリア本土での最も大きな被害は、1942年2月19日の日本海軍によるダーウィンの爆撃。

1941年12月8日、日本海軍は、アメリカ領ハワイのオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊を航空兵力で攻撃。
1942年2月までに南太平洋の海域を制圧。
日本陸軍が東南アジア諸国を占領開始。
2月15日には、陸軍が英国領シンガポールを占領。
大本営は、日本海軍に対して、陸軍のバックアップの為に、インド洋制圧を命じた。

その戦略に沿って、南雲忠一海軍中将を司令長官、草鹿龍之介少将を参謀長とする日本海軍第一航艦隊の赤城、加賀、第二航空艦隊の飛龍、蒼龍の4隻の新鋭航空母艦を中心とした真珠湾攻撃の主力部隊がインド洋へ進出。
インド洋への通過の際に英国連邦オーストラリアのダーウィンを攻撃している。

投入した爆弾は、真珠湾攻撃を凌ぐ量。
主力戦闘機は、零式艦上戦闘機二十二型36機。
合計242機の日本海軍航空機がダーウィンの主要設備を攻撃。
豪州側は、死者243名、8隻の船舶が撃沈されている。

その後も数十回に渡ってダーウィンやノーザンテリトリーの町は、日本軍の攻撃を受けている。
ダーウィンでは毎年2月19日にメモリアル礼拝を行っている。

太平洋戦争に中心的な役割を果たしたビクトリア・バラックスでは、後に日本占領軍司令長官となるダグラス・マッカーサー将軍も対日戦略の指揮を取っていた。(リトル・コリンズ通りのビクトリアホテルに宿泊)

戦後、ビクトリア・バラックスに隣接するキングスドメイン公園に、戦争記念館が築かれた。

撮影データ
Canon EOS 5D MarkⅡ 絞り優先AE 評価測光 絞りF2.8 1/1250秒 ISO感度 100 AWB 画質圧縮率 JPEG レンズ EF 70-200mm f/2.8L USM
撮影 板屋雅博

 


 

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