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あれから2年

飯舘村の酪農家が語る「原発事故、そして私たちの今」

2013年3月11日

 

 

 

「あらゆる災害は、『がんばろう』と人びとの気持ちを1つにする。でも原発事故だけは、すべてのものをバラバラにする。核分裂を起こすんです」。


福島第一原子力発電所から約30キロに位置する福島県・飯舘村前田区で、酪農を営んでいた長谷川健一さん。



今なおほかの多くの同区民とともに、福島県伊達市にある小さな仮設住宅で暮らしながら「福島の原発事故を風化させてはいけない、正確に伝え続けたい」と、日本また世界各国を巡り、自らが、そして村民が経験したことを語りつづける。


震災2週年を迎える今月、「オーストラリアの人々にも事実を知ってほしい」と、日本のNPOピースボート、地元メルボルンの平和グループ・ジャパニーズ・フォー・ピース(JfP)ほかの支援を受け、夫人の花子さんとともに来豪中だ。


3月15日までオーストラリアの各都市を巡り、講演を行うその皮切りとして、9日、メルボルンのコミュニティー環境パークCERESで、ピクニック・トークの集まりが開かれた。最高気温34度という厳しい暑さの中、およそ70人の人々が参加した。
 

 


「家族8人4世代の日々の暮らしのすべてが奪われました」。


長谷川さんは、こう始める。
 

海の波さながらに揺れ、地面が割れるほどの地震のあと、起こった福島第一原発の爆発。


30キロ離れた飯舘村に放射能がくるとは、当時村の誰もが考えてもいなかった。直後に原発から北西、飯舘村の方向へ、放射能の雲がまっすぐ向かっていたことが知らされたのはずっと後、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータが正式に公開されてからだった。


震災、事故から1カ月後の4月、飯舘村が計画的避難区域に指定された。


それと同時に元酪農家が妻、長男とともに手塩にかけていた50頭の牛たちは、「飼いつづけてはいけない」「移動してもいけない」と政府の通達を受けた。


憤った。それまでの暮らしの糧となり、中心でもあった牛たちを見捨てて行くことができるか。


政府にかけあった結果、飯舘村の牛2頭を屠殺・検査し、その肉から放射能が検出されなければ、屠殺処分にすることは可能という許可を得た。


屠殺が実行までの3ヶ月間、長谷川さんは放射能を浴びることを覚悟の上で村に残り、出荷できなくなった乳を搾っては捨て、搾っては捨てる日々を送った。屠殺に連れていく当日、牛たちは運命を知ってかなかなかトラックに乗ろうとしなかった。走るトラックに追いすがって泣きながら謝る農家の女性、飯舘村に移り住んで10年、ようやく軌道に乗ったと思った矢先に牛を失った青年酪農家も涙を堪えなかった。

家族同然だった牛たちが、一体何になったのか。ハンバーガーになったのか、ドッグフードになったのか、「分からない」という。


農家によっては放置することを選んだ。餓死した牛の死骸を、誰も面倒見ることのない豚たちが喰い漁るという、酪農家にとってはあまりにも酷すぎる光景を、長谷川さんは目にした。


 


長谷川さんの話に耳を傾けるオーストラリアの環境活動家、デイブ・スウィーニー氏
 


バラバラになったのは牛たちだけではない。


長谷川さんの友人で、南相馬の酪農家は、妻が子供を連れて母国フィリピンへ移ったあと、「原発さえなければ」という言葉を遺して自ら命を断った。仮設住宅に避難する家族の足手まといになりたくないと自殺した102歳のおじいちゃんもいた。


長谷川さんの奥さん、花子さんは、今仮設住宅の管理人を勤め、同じ地区出身の人々の世話をし、楽しい暮らしができるようにと季節ごとのイベントを企画をする。

「心配なのは、借り上げのアパートや家に住んでいるおじいちゃん、おばあちゃんたち。昼間、家族は仕事に出かけてしまい、周囲に知る人もいない」。


2年間の仮設住宅暮らしに疲れ、飯舘に帰ったお年寄りは、150人にものぼるという。「でも若い人がいない。家畜もいない。店もない。生活臭がない。こんな状態の村が、将来どうなるのか」。長谷川さんは、自問する。

 

 


今、飯舘村では、政府による「除染」が進められている。主に行われるのは「表土5センチの剥ぎ取り」だという。

 

長谷川さんは、除染には懐疑的だ。


「村長をはじめ、『除染できる』『村に帰れる』とみなが言う。それは飽くまで『願い』。現実とは違うと私は思っている」。

もちろん帰りたい。もとの生活に戻りたい。追い立てられて、今、ふるさとのよさを改めて噛み締めている。

だが、それは願いであって、現実ではない。

「飯舘でなく、よそで新しい生活を建て直すことも、私は考えている。考えるべきだと思う」。
 

 

震災後、長谷川さんは村で起きたあらゆる出来事、風景を写真と映像に納め続け、
今年1月、1冊の冊子として出版された。


 

若い世代は、すでに新しい暮らしをスタートしている。長男は妻と小さな子供2人を連れて、山形県へ移り住んだ。「やはり酪農を続けたい」と、45頭の牛の寄付を受け、知人たちと福島市で農場を始めた。毎日往復で3時間以上、雪深い時にはそれ以上かけて、山形から福島市へ通う。


「今年のお正月はね、子どもも孫もみんな集まって楽しかったよ」と花子さん。


「年末にね、子どもたち3人が『お母さん、今度のお正月は何もしなくていいから、私たちが全部準備して持ってくるから』って。はいはい、って聞いてたら、お正月、お父さんの還暦のお祝いをしてくれたのよ。狭い仮設住宅の中にみんなで雑魚寝してね。楽しかったよ」。
 

「孫の1人はね、原発事故の直後に『できた』って知らされた子でね。その子が、今よちよち歩くんだからね。ああ、こんなに時間が経ったんだなって思うよね」。

 


「一番かわいそうなのは、ちっちゃな子どもたち。すでに甲状腺に異常値が出ている子どもがいる。そして広島、長崎でもそうだったけれど、『放射能を浴びた』と差別される。それが起こらないような社会をこれから作らないといけない。何よりも、福島を、二度と世界に生み出さない」。

 

文・写真:田部井紀子
 

■長谷川さんご夫妻に続き、今月末、ピースボート、JfPほか地元NGOの協力で、福島県南相馬市から中学生12人がメルボルンにやってきます。同プログラムの詳細、募金、協力の方法など、詳しくはJfPのコラムでご覧ください。

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