小説版バイリンガル子育て 第1話 『ありふれた奇跡』
更新日: 2010-01-16
「破水したから、これからタクシーで病院に行くね」彼女がそう電話してきたのは、2006年6月2日の12時半くらいの事だった。僕は仕事を抜けさせてもらって家に帰り、彼女の着替えやハブラシとかをカバンに詰めて病院へ向かった。
病院に行ったら彼女は眠っていた。仕方が無いので看護婦さんに荷物を預ける事にした。
「すぐ生まれそうですか?」
「今の様子だと生まれるのは明日になりそうですね。生まれたらご連絡します」看護婦さんにそう言われ、僕は仕事に戻った。
僕も彼女も、立会い出産は望まなかった。仮に彼女が望んでも僕は立ち会わなかったと思う。10ヶ月赤ちゃんと一緒に暮らしてきたのは彼女なのに、最後だけ一緒にいて自分も頑張ったような気になるのは虫が良すぎると思ったから。それと将来ケンカした時に、「私がこの子を産んだんだから」と言うセリフを使わせてあげたかった。もし僕が立ち会ってしまうと、「俺も一緒に頑張った」と言ってしまいそうだから。 母親を16で亡くした僕は、精神的にマザコンだと思う。だから母親と子供は父親が手出しができないところで、強く結ばれていて欲しい。
仕事中、色々な事が頭の中を駆け巡った。子供の頃の両親との思い出、彼女との出会いからこれまで、そして生まれてくる新しい命。僕は一人っ子なので、これまでに新しい命を迎えた経験が無い。生まれたばかりの赤ちゃんは猿みたいだって聞いたけど、それすら想像できなかった。毎日数千人の子供が生まれている中の一人。でも僕にとっては特別な一人だ。友達の誰かがそれを『ありふれた奇跡』と言っていた。僕はその『ありふれた奇跡』を目にしたら、どうなるんだろうか?
午後8時に店を閉めて、近所に住む親父のところに行った。元板前だった親父が作ってくれた晩御飯を食べながら、酒を飲んだ。親父は、僕が生まれた時の事や、名前を考えた時のエピソードを話してくれた。僕達は生まれてくる子供の性別を聞いていない。心の中に何も用意していない状態で、生まれたその時に、子供が生まれた事を全身全霊で感じたかった。
親父の家に来てから1時間くらいが過ぎ、飲み物もビールから焼酎に変えた頃、僕の携帯電話が鳴った。非通知。親父を見たら、目配せをして軽くうなづいた。僕は電話を取った。
「高橋さん、8時29分に生まれました!3138グラムの元気な男の子ですよ」僕達は慌ててタクシーで病院に向かった。
病院に着くと、看護婦さんが彼女と生まれた子供が待つ病室へ案内してくれた。カーテンを開けると、ベッドの上で体を起こした彼女が赤ちゃんを抱いていた。その時の彼女の顔は今でもハッキリ覚えている。お化粧もしてなかったけどすごく綺麗だった。「わたし頑張ったよ」という誇らしげな目をしていた。「だっこしてみる?」彼女にそう聞かれて、僕は彼女の横に移動して、そっと両腕を差し出した。
「Nice to meet you. I'm your Daddy」
生まれたばかりの小さな命に、僕は英語でそう話しかけた。(つづく)

※読者の方からの質問や応援メッセージ大歓迎です。コメントお待ちしております。
補足:立会い出産についての考え方ですが、人それぞれだと思っているので、立会い出産をしてよかったという方を否定している訳ではありません。皆さんの経験などをコメントいただければ嬉しいです。
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