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80歳の現役アーティスト、 原爆の悲惨さをライブ・ペインティングで

在シドニー原爆体験者・森本順子さん、絵本『わたしのヒロシマ』著者

2012年8月11日掲載

 

 

    写真:兼重貴子 (Photographed by Takako Drew)   

 


8月6日、広島原爆記念日。
67年の歳月が経っている上、メルボルンという遠く離れた場所にいると、つい忘れてしまいがちな日。


ただし、たとえ忘れられても、壮絶な出来事が67年前のこの日に本当に起こったという事実には、変わりがない。

 

シドニー在住のアーティストで絵本作家でもある森本順子さん(80)は、広島で被爆した。
 

当時13歳だった森本さんは、家族と逃げ場所を探す間、数多くの無残な光景を目にした。
その光景は、67年経った今も残酷なほど鮮やかに、目の前に蘇ってくる。

 


記念日に先立つ先週5日の日曜日、メルボルン市内州立図書館内のホールで、平和グループ「ジャパニーズ・フォー・ピース(JfP)」による「ヒロシマ・ナガサキ平和祈念コンサート」が開催された。


このイベントで森本さんは、幅1メートル80センチ高さ1メートル20センチという大きなキャンバスに、墨絵で、原爆の犠牲者の姿を描き出した。

 

写真:兼重貴子 (Photographed by Takako Drew)      

150センチメートルに満たない小さな体、全身黒にベレー帽の森本さんがステージに上がる。
200人の観客が、固唾を飲み、眉根を寄せながら、食い入るように見つめる前で、30分間、森本さんにとって決して忘れられない場面が再現されていく。


それは非常に辛い作業だ、と森本さんは話す。
初めて人前で原爆の絵をライブ・ペインティングをした時には、泣きながら描いたという。
 

ステージに上がる前、下書きを終えた段階で、森本さんは数分間、無言でキャンバスを見つめた。
これから自分が描き出す人々へ、哀悼の思いを語りかけ、絵に気持ちを込めていく。


出来上がった絵を見て、涙する観客もいた。
観客の中には、森本さん被爆当時の母校・広島女学院中学の生徒9人の姿もあった。


たまたまメルボルンにホームステイでやってきていたという彼女達、さらに偶然にも、ホストファミリーへの贈り物にと森本さんが25年前に著した絵本『My Hiroshima』を持参していた。
 


『My Hiroshima』、邦題『わたしのヒロシマ』は、87年にまずオーストラリアで、英語の絵本として地元出版社のHarper Collinsから出版。

 

「『原爆』をテーマにした絵本が出版されたことは、当時のオーストラリアにとって、大きな衝撃だったの」
と森本さんは出版当時を振り返る。
 

87年までの4年間、森本さんは1年に1度のペースで、日本の昔話「つるのおんがえし」「いっすんぼうし」「わらしべ長者」そして宮澤賢治の「なめとこ山の熊」の絵本を、同社より英語で出版。
 

この4冊すべてが、児童文学・絵本に与えられるものとしては国内最大の賞『Children's Book of the Year』でそれぞれ3位、2位、2位、そして最優秀賞の1位に選ばれている。

 

4年連続で受賞を重ねた日本人絵本作家の次の作品は、どんなものになるか。
業界の人々は注目していた。

 

そこへ出版された『My Hiroshima』は、昔話を扱ったそれまでの4作とはまったく違う、森本さんが体験した原爆の日の、無残な光景を描き出し、戦争の悲惨さを強く訴えるもの。
同作は、賞にノミネートにすらされなかった。
 


 

「あまりにも特殊だったから仕方がない、と、Harper Collinsの編集長、アン・イングラムさんと、話していてね。

ところがね、当時、絵本の評論家としては国内の第一線で活躍していたモーリス・サグスビーという人が、新聞の書評欄で

『この絵本がノミネートされなかったことは、国の恥だ』と。

それで、アンも私も『見る人は見てくれた』と満足したんよ」

 


絵本の評価は、そこで終わらなかった。

オーストラリア中ほぼすべての小学校で蔵され、何万人という生徒たちが読み継ぐことに。
今30代前後のオーストラリア人で、『My Hiroshima』、読んだことがあるという人は多い。
 

その後も版を重ね、日本をはじめ、アメリカを含む世界各国でも翻訳、出版され続ける。


今年6月には、日本政府、広島市からの助成金、そして市民から協力金を得て、日英併記版がNPO法人HPS国際ボランテイア佐藤広枝理事長の尽力により出版。

広島市内すべての小中学校計206校に40冊ずつ寄贈された。

 

日・豪双方で国民的絵本作品、と言っても過言ではない『My Hiroshima』。
実はこの絵本は、今は亡き2人の友人がいなければ、実現しなかった、と森本さんは話す。

 

1人は、オーストラリアで絵本を出版し始めて以来、
「絵本で、被爆者の話をぜひ描いて」
と資料を送りつづけてくれた親友だ。

『なめとこ山の熊』が1位を受賞する直前に、彼女はガンで亡くなった。
森本さんは仏壇で謝った。
「来年、必ず原爆の絵本を出すから!」と。

 

もう1人、子どものころからの幼なじみ。被爆者だ。
結婚して2人の子どもをもうけ、幸せな生活を送っていた30代のころに、原爆症を発症した。

原爆病院を出たり入ったりしていた彼女に、帰国時『My Hiroshima』作ることが決まったと話すと、
「がんばってね。順子ちゃんに何かあげたい」
とバラの花束を贈ってくれた。


できた本を持って、入院中の彼女のお見舞いに行った。
「とうとう出してくれたんやね」と言う彼女の姿は、明らかに最期が近づいていた。
間もなくして亡くなった。
 

「『My Hiroshima』は、この2人に引っ張られるようにして、できたんよ」。

 


そして、最後のひと押しは、Harper Collinsの、アン・イングラム編集長。

「今こそ被爆者の絵本を描きたい」
と言う森本さんの言葉を受け、企画を出版会議にかけるも
「こんな本は無理だ」と全員から反対を受けた。
それでも諦めず、ロンドンのHarper Collins本社まで出向き、社長を説得、出版を現実のものにした。


絵本作家1人の力では実現しなかった一冊。


ページをめくると、原爆の前の静かで美しくやさしい広島、たった1つの小さな爆弾が落とされた、その一瞬で、地獄に変わってしまった街が、透明感溢れる繊細な絵から、不思議なほど恐ろしくリアルに伝わってくる。


その鮮やかさは出版されてから25年経った今もまったく変わっていない。

 

「人間はアホな動物やからね。同じことなんぼでも繰り返すの。

戦争、原爆、原発作るのも、コアラでもない、カンガルーでもない。

人間しか、やらん。

そして、それを止めることができるのも、人間だけなんよ」

 

 

自らが目にした悲劇を二度と生んではならない、と伝えるために、今も走りつづける。

80歳の現役アーティストの言葉は、痛烈だ。


 

文・写真(クレジットのないもの):田部井紀子

 

 

※『わたしのヒロシマ』(英語・日本語バイリンガル)は、日本書籍・日本関連洋書の古本屋バーニングブックスで取り扱っています。

コメント

以前のコメント

山口 範子   (2017-08-06)
私はオーストラリアのブリスベン在住です。貴重なご縁で、今年6月に旅したハワイ島で、出会った日本から同じく旅でいらした方より、2012年に広島で発行された日英併記版を頂きました。森本さんやご友人達、被爆された方々に思いを馳せながら、貴重なお声を他の方にも大切に伝えていきたいと思います。森本さん、そしてこちらの記事と、伝えて下さってありがとうございます。
ソフィー   (2013-09-06)
人の命はかけがえのないものです。国の経済状態がどんなに悪くても、絶対に戦争で経済回復などという道を選んでしまってはならないと思います。反戦を訴える絵本や語りが本当に必要です。私自身も読み聞かせ等で反戦活動させていただいております。森本さんの絵本読み聞かせさせていただきたいとこことから思っております。戦争を知らない子どもとして育った私にできる精一杯の反戦活動として。
TBSのニュース   (2012-08-16)
でも、森本さんのことが伝えられましたよ。http://news.tbs.co.jp/newsi_sp/catch/20120815.html
田部井紀子   (2012-08-15)
たくさんの生徒さんたちに、読んでもらえるといいなと思います。
けん   (2012-08-12)
我が子の通う小学校(現地校)の図書館にもあります!

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