テス・マッケンジーさんの物語(3)
更新日: 2022-01-23
私以外にも、3人仲の良い友達が、オーストラリア人の恋人を持ち、私達はカップルで、一緒に、秋にはピクニックに行ったり、夏には海水浴、春には花見などに行き、デートを楽しんだものです。その時の仲間は一人を除き、皆後にオーストラリアに来ました。
レイと私は、呉で1952年に結婚しました。その時は私の家族は全員結婚式に出席してくれました。友達の多くが家族の反対にあったので、私は家族にも祝福されて結婚でき、幸せでした。
結婚した後、レイと二人でオーストラリアに来る予定でしたが、ことはそんなに簡単には運びませんでした。オーストラリア人の反日感情がひどかったからです。それというのも、戦時中の日本軍のオーストラリア人の戦争捕虜に対する残虐な仕打ちが、オーストラリア国民の間に知れ渡るようになったからです。オーストラリア人たちは、自分たちが日本の捕虜を大切に扱えば、日本軍もオーストラリア人の捕虜を大切に扱ってくれるだろうと、日本人捕虜を丁重に扱いました。その期待が裏切られたのですから、オーストラリア国民の日本に対する憎しみは激しかったのです。
労働党のチーフリー政権は、敵国人の入国を拒み続けましたが、1949年政権を取った自由党のロバート・メンジーズは、1952年、やっと日本人の入国を認めました。日本に残した日本人妻を呼び寄せるために、ゴードン・パーカーさんがキャンペーンを繰り広げてくれたおかげだと言えます。1952年6月、戦争花嫁として初めてゴードンさんの奥さん、チェリーさんが子供二人連れて、オーストラリアに来ました。ゴードンさんがチェリーさんに日本語を話さないように言ったと聞いたことがあります。日本人であるために、嫌な思いをさせられないようにとの、ゴードンさんの心遣いでしょう。
著作権所有者:久保田満里子
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