EMR(30)
更新日: 2011-07-31
その晩、ハサームも家に帰り、アバスも寝た後、ムハマドは一人テーブルに座って、ブシュラ宛に、手紙を書いた。「ブシュラ、
僕は世界中のイスラム教のためにジハードをすることにした。ジハードの前に君にお別れを言いに行きたかったのだが、それもできなくなった。
君を愛していたことを伝えられないことだけが、心残りだ。ブシュラ、僕は先に天国に行って、君を待っているよ。天国でまた会おう。 ムハマド」
短い手紙だったが、これ以上なんと書いていいか分からなかった。手紙に封をすると、投函するためにこっそり隠れ家を抜け出した。
満月の夜で、月が異常に大きく見え、外は昼間のように明るかった。人々が寝静まった通りはひっそりして、ネコ一匹いなかった。街灯と月の光に照らされた道路わきに植えられた木々がシルエットを作り、幻想的な世界をかもし出した。ムハメドの歩くヒタヒタという音だけがやけに大きく聞こえる。駅の前で郵便ポストを見つけると、切手も貼らないで投函した。もしかしたら手紙は送り返されるかもしれない。でも、ブシュラに自分の気持ちを一言も言わずに死ぬのは、余りにもわびしかった。投函した後は、気分がすっきりした。これで、思い残すこと無く使命を全うできる自信がわいてきた。
隠れ家に帰って玄関のドアを開けると、カサコソ中から音がした。何者がいるのだろうと、胸がドキドキし始めた。もしかしたら警察がこの隠れ家を見つけ出し、自分の出かけている間に襲撃したのかもしれないという恐怖に襲われた。玄関の片隅に身をひそめ、何者かが襲ってきたらすぐに家を飛び出せるように身構えた。
すると、部屋から人影が出てきて、廊下の電気をつけた。その人影がアバスだと分かり、ムハマドは安堵の息をついて、立ち上がった。
「何だ。アバスか。びっくりするじゃないか」
「こんな真夜中、どこに行っていたんだ?」
咎めるような声だった。
「ちょっと、散歩だ」
「ハサームから出歩くなって言われたじゃないか」
「悪い、悪い。もう寝よう」
ムハマドは寝室のほうに歩いていったが、背後にアバスの疑い深げな視線を感じた。アバスも警察が自分たちを捜していることを知っているので、神経がピリピリしているようだ。
日が昇り、ムハマドは、結局一睡もせずにも、テロ決行日の前日を迎えた。ムハマドもアバスもその日も、いつものように礼拝をした。
ムハマドは「ジハードが成功しますように」と祈った後、「ブシュラの元に無事に手紙が届きますように」と祈ることも忘れなかった。ムハマドもアバスも話すことも無く、沈黙のうちに半日たってしまった。
昼過ぎにハサームが来て、ビデオカメラをセットした。
最初にムハメドがビデオカメラの前に座った。
「僕は、ムハマド・ラシード。これから、ジハードを行う。アメリカをはじめとする西欧諸国はイスラム教を迫害し、イスラム文化を破壊している。オーストラリアもアメリカに加担し、湾岸戦争に参戦し、今もアフガニスタンに兵を送り出している。オーストラリア政府に警告を発するために、僕は自分の命を投げ出して、殉教することにした。オーストラリアはアフガニスタンから手を引け。お父さん、お母さん、僕はイスラム教のために自分の命を捧げます。きっとお父さんもお母さんもこんな僕を誇らしく思ってくれると思います。これから親孝行ができないけれど、天国で会えると信じています。さようなら」
できるだけ凛々しく聞こえるように言った。俺は殉教者になるんだからと。
ムハメドのメッセージの録画が終わって、アバスのメッセージの録画を始めた時、ムハメドの携帯が鳴った。携帯の表示をみるとニールだった。警察が動き出したのかもしれない。電話にでようとすると、ハサームがムハマドに忠告した。「長く話すなよ。長く話すと居所をつきとめられるぞ」
「分かった」と言うと、「ムハマド」と電話に出た。
ムハマドは、ニールからメルボルン空港を爆破することになっていることが警察にもれたと聞かされ、衝撃を受けた。ニールは、メルボルン空港の警官の配置図を一万ドルで買わないかと持ちかけてきたが、抜け目の無い奴だと、ムハマドは腹立たしかった。
ハサームが側にいて、早く電話を切れとジェスチャーしている。
ムハマドは警備の配置図を買うことに同意した後、取引の場所と時間は後で連絡すると言って、電話を切った。
「まずいことになったぞ。警察はメルボルン空港が標的になっているのを知っている。どうしよう」
ムハマドは、ハサームとアバスの顔を交互に見ながら言った。
その後、ハサーム、ムハマドそしてアバスの三人が、この新しい事態にどう対処すべきか、夜遅くまで協議した。
そして、ついに夜が明け、決行日が来た。
著作権所有者:久保田満里子
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