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EMR(7)

「理沙がさっさとボーイフレンドを作っちゃえば、省吾だってあなたのことを諦めて、ただの友達としてつきあってくれるかもしれないわよ」
「そんなにボーイフレンドって簡単に作れるものなの?私、今は仕事に慣れることで精一杯だから、そんな気持ちの余裕ないわ」
「気持ちの余裕があるかどうかなんて、関係ないわよ。要は、フィーリングの合う人に会えるかどうかだわね」
「そうね。ともかく、省吾も気にしていると思うから、エレクトロニック・マインド・リーダーのこと、知らせておくわ」
「そうね。じゃあ、また」
 電話を切った後、理沙はすぐには省吾に電話する気にはなれなかった。しかし、いつまでも引き延ばすわけにはいかない。
「よし、電話しよう」と自分を励まして、受話器を手に取った。今までは、省吾に電話する時そんなに意識をすることはなかったのに。
「省吾です」といつも聞きなれた声が聞こえてきた。
「理沙だけど、きのうは引越しの手伝い、ありがとう」
「いや。いいよ」
 いつもなら冗談の一つも言う省吾なのに、やはり彼もきのうのことを意識しているようで、いつになくぶっきらぼうだった。
「今朝、ハリーが来たわ」
「ハリーって、誰?」
 省吾はきのう隣の人が教えてくれたハリーという名前をすっかり忘れているようだった。
「このマンションの前の住人よ」
「ああ」
やっと、ハリーと言う名前を思い出したようだ。
「あの耳栓もどきは、エレクトロニック・マインド・リーダーっていって、ハリーの発明した機械なんですって」
「エレクトロニック・マインド・リーダー?」
「ええ、心を読む機械っていうわけね」
「へえ、そんなもの、何の役に立つんだろうね」
 省吾は自分の気持ちを読み取られたことを腹立たしく思っているようで、敵愾心をもろにだして、意地悪く聞いた。
「私もそれを聞いたら、身体障害者とのコミュニケーションとか、嘘発見器の代わりに使えるということだわ」
「そうか。でも、それって個人の機密情報をとるのにも使えるよな」
「そうなの。この機械はまだ特許を申請していないから、誰にも言わないでくれっていうことだわ」
「そうか」
 省吾の「そうか」は、他人に言わないことを約束するよと言う意味か、ハリーがそういったということを理解したという意味か、はなはだあいまいだったが、理沙はそれを追及する気にはなれなかった。
「ところで、彼にこのエレクトロニックス・マインド・リーダーの実験協力を頼まれたわ」
「え?それって、何をするの?」
「知らない人に触って、その人の心を読む実験よ」
「そんな不愉快なこと、やめておけよ」
「私も断ったんだけど、結局は説得されて、協力することにしたわ」
 省吾は黙ってしまった。
「ともかく、そういうことなの」
「そうか」
 二人の会話はそれで終わり、電話を切ったが、理沙はその後しばらく気持ちがすっきりしなかった。省吾は理沙がハリーの実験を手伝うことに反発していたが、ハリーとの約束を反故にする気にはなれなかった。
 月曜日が訪れ、理沙は勤務先の日本商社に初出勤した。他の社員に紹介されたり、仕事の説明を受けたりで、ドタバタしているうちに退社時間になった。日本の商社と言えどもオーストラリアでは五時までの仕事と言う契約なら五時になれば堂々と退社できる。理沙は五時に会社を出ると、そのままハリーの研究室に向かった。
 ハリーの研究室は大学の古い建物の中にあった。石造りのアーチに取り囲まれた建物は、一見してヨーロッパの古い教会のようにも見える。ただ建物のてっぺんには十字架がないので、教会でないことが分かる。建物の中に入ると、天井が高く、夏にもかかわらずひんやりとした空気が漂っていた。入ってすぐ右手にある事務室は五時を過ぎていたため、閉まっていた。建物の中を歩いていくと、大理石で出来たような床にコツコツと理沙の足音がひびく。話しながら歩いている二、三人の学生とすれ違った。五時を過ぎるとクラスもないようで学生の姿もほとんど見えなかった。
 事務室から一番遠い奥のドアに「ハリー・アンダーソン博士」と名札のかかった部屋があった。ドアをノックすると、すぐにきのうと同じ髭もじゃのハリーがドアを開けてくれた。研究室の中は、本と書類などが所構わず散らかっており、足の踏み場もないくらいだった。ハリーは無頓着に紙の上も平気で歩いたが、理沙は床が見えるところを選びながら足を運んで、やっとの思いでハリーの机の前にある椅子にたどり着き、腰掛けた。
 この調子では、契約書など、まだ準備をしていないのではないかと心配になってきたが、事務能力と整理能力は別物のようで、ハリーの机の上には、契約書がちゃんと置かれていた。
 ハリーは自分も椅子に座ると、「この契約書を読んで、サインしてください」と理沙に契約書を渡した。
 理沙が契約書を読んでいる間、ハリーはコンピューターに目をやり、コンピューターのキーボードを打ち始めた。一分でも時間を無駄にしたくないという感じだ。
 契約書には、一時間三十ドルで一年間に百時間、総額三千ドルと書かれていた。
「あのう、この一時間三十ドルというのは?」と理沙がハリーに声をかけると、ハリーは顔だけ理沙に向けて、
「一人について一時間かかると見て、半年で百人くらいのデーターをとってほしいと思っているんだけれど」
「一人について一時間もかけるんですか?」
「レポートを書く時間も含めたら一時間かかると思ったんだけれど、それでは、不服なの?」
「いえ、一人について一時間もくっついていなければいけないのかなと思ったので」
「アッハッハ。そんなに知らない人にくっついていたら、たとえ君のように可愛い女性でも、痴漢かストーカーに間違えられるよ」
 ハリーの顔に、屈託のない笑顔が広がった。
「それでは、これでいいです」と理沙はサインをして日付を記入し、ハリーにその書類を返した。
「毎月、何人の実験ができたか、この書類に記録して、月末に僕のところにもってきてもらえば、アルバイト料を君の銀行の口座に振り込むから、ここに君の銀行の口座番号を書いてください。それから、これが、調査報告書」と言って、ハリーは書類をもう一つと、調査報告書の用紙を理沙に渡した。
 理沙が銀行口座の番号を書き、報告書の用紙を受け取ると、ハリーはEMRを鍵のかかった机の引き出しから取り出して、理沙に渡した。
「これ、代わりはないから、大事に使ってください。これで、契約の手続きがすみましたが、何か質問がありますか?」
「いえ、ありません」
「じゃあ、よろしく」と言って、ハリーは握手をするために手を差し出した。理沙はハリーの手をとって握手をし、契約は成立した。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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