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ハンギング・ロック:事件の始まり(2)

308号室に行き、ドアをノックしたが、不在のようだった。どうしようかなと思い始めたとき、通りかかったアジア人のほっそりした女性が声をかけてきた。
「後藤先生に何か御用ですか?」
レイモンドは渡りに船とばかり、警察手帳をまた取り出して
「警察の者ですが、後藤先生にお会いしたいのですが」
警察手帳を見て、その女性はちょっとびっくりしたようだ。
「警察の人が、後藤先生に何の用なんです?」
「いえ、後藤さんにお聞きしたいことがあるのですが、どこにいらっしゃるかご存知ですか?」
「今日はまだ大学に来ていないようですが…。お家のほうに行かれたほうがいいかもしれませんよ」
「いえ、家にいないからこちらに来たのですが。失礼ですが、後藤さんの同僚ですか?」
レイモンドは観察するような目で狩野を見ながら聞いた。
「ええ、後藤と同じようにこの大学で日本語を教えている狩野洋子と申します」
「それはよかった。実は後藤さんの車がハンギング・ロックの駐車場に夕べから停まったままになっているんです。ハンギング・ロックのカフェのオーナーが心配して通報してきたので、捜索にあたっているのですが、後藤さんがハンギング・ロックに行かれたのは、ご存知ですか?」
狩野の顔に不安の翳がよぎった。
「そういえば、ハンギング・ロックにいつか行ってみたいというようなことは言っていましたが」
「どうしてですか?」
「『ハンギング・ロックでのピクニック』という小説を授業の教材に使ったけれど、実際にハンギング・ロックに行ったことがないので、いつか行きたいと言っていました。で、もしかして後藤さんがあの小説の少女たちのように行方不明になったっていうのですか?」
レイモンドは笑いながら言った。
「いや、そんなことは言っていませんよ。そんなに簡単に人間が蒸発するなんて事、ありえませんからね。今いろんな可能性を探っているところです」
「可能性と言うと?」
「一番考えられることは、ハンギング・ロックで迷ったことですが、まず後藤さんがどんな人か分からないと捜索のしようがありませんからね。ところで、後藤さんの写真は、お持ちですか?」
「あるはずです」と言うと、狩野は廊下を歩き始め、自分の研究室に向かった。レイモンドは黙って狩野の後をついていった。狩野の研究室は後藤の研究室とはかなり離れており、受付を通り越した反対側にあった。
 研究室の鍵を開けて、狩野はレイモンドを中に招きいれた。

 狩野はきれい好きと見え、部屋の中はきれいに整頓されていた。本棚にあまり本がないのがレイモンドには意外だった。大学の先生の研究室と言うと、本で溢れかえっているような印象を持っていたからだ。本の代わりに扇子とか日本人形が飾られていた。
「どうぞ、お座りください」と狩野はレイモンドに応接セットの椅子をすすめた。
レイモンドが座って待っている間、狩野は机の引き出しを開け、10数枚の写真の束を取り出し、一枚ずつ調べていき、5枚目のところで、
「ああ、ありました」と言って、その写真をレイモンドのほうに差し出した。
「この右側にいる眼鏡をかけた男の人が後藤先生です」
「なるほど。後藤さんに関して知っていることをどんなことでもいいんですが、話して頂けませんか?」
「後藤先生は10年前からこの大学で教えていらっしゃいます。オーストラリアに来たのもその頃だとうかがっています」
「ご家族は?」
「弘君と祐一君と言うふたりの息子さんがいらっしゃいます。でも、3年前に離婚され、息子さんたちと会うのは週末と休暇の時だけだと聞いています」
「再婚はしていないのですか?」
「ええ、お一人です」
「先妻の名前と住所は分かりますか?」
「前の奥さんの名前は聡子だということは知っていますが、私は一度もお会いしたことがないし、住所までは分かりませんわ」
 レイモンドは、子供の親権が母親に取られ、子供と別れるつらさと元妻に対する腹いせで子供連れの無理心中をした男の事件が最近二つもあったことを思い出して、聡子と連絡をとらなければいけないと思い始めた。
「後藤さんて、どんな性格の人ですか?」
「さあ」と言って狩野は困ったように、首をかしげた。
「まあ、陽気な方で、よく周りの人を笑われていましたね。だから学生からとても人気がありました」
「なるほど。最近自殺をするような悩みをもっているように感じられましたか?」
「え?自殺」
狩野は驚きの声をあげた。レイモンドは狩野の反応にあわてたように急いで付け加えた。
「いえ、可能性の一つとして自殺もあるかなと思って聞いているわけで、別に後藤さんが自殺をしたなんて思っていませんよ」
「それなら、考えられませんわ。とてもポジティブな方で、落ち込んだことなんて一度も見たことありません。反対に私はよく落ち込んでは慰められているくらいですから」
「そうですか。でも、明るい人に限って、独りになると孤独が身にしみて限りなく落ち込む人っていますからね。表面だけでは人間わからないところがありますよ」
「へえ、そんなもんですか?」

狩野はレイモンドのしみじみとした言い方に感じ入ったように、うなずきながら言った。
「ところで、後藤さんは何歳なんですか?アジア人の年齢は全然見当がつかないんですが」
狩野は笑いながら言った。
「42歳ということです」
「後藤さんは、今でも日本国籍なのですか?」
日本国籍なら日本の領事館に協力を求められる。
「日本国籍のはずです。日本人がオーストラリア国籍を取得すると日本国籍を捨てなければいけませんからね。オーストラリア国籍を取得しても英国国籍ももっていれるようなイギリス人と違って、日本人はそう簡単にはオーストラリア国籍を取得しないんですよ」
「そうですか。それは初耳です。ところで、後藤さんと親しい方、どなたかご存知ありませんか?」
「私は親しかったつもりですが、ハンギング・ロックに行くことは聞いていませんでした。もしかしたら、日本語プログラムの主任の香川先生が、何かご存知かもしれません」
「香川さんの研究室はどこです?」
「307号室、後藤さんの隣の部屋です」
「また、何か耳寄りな情報が入ったら、こちらに知らせてください」とレイモンドは椅子から立ち上がりながら、自分の名刺を渡した。
「後藤さんがみつかったら、すぐにしらせてくださいね」と狩野も自分の名刺を出してレイモンドに渡した。狩野は後藤の失踪で動揺しているようだった。

著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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