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ハンギング・ロックの謎:事件の始まり(3)

狩野に会った後、レイモンドは香川に会ったが、耳新しい情報は得られなかった。香川も後藤がいなくなったらしいという話に驚いていた。大学の教師は、学生の休暇中は毎日大学に出てくるわけではないので、今日はまだ後藤の顔を見ていないが、たいして気にも留めていなかったということだ。そして後藤からハンギング・ロックに行くという話も聞いていなかった。
 レイモンドはそれからいったん署に戻り、後藤の写真をスキャンして、電子メールでハンギング・ロックを管轄する北警察署に送った。北警察署からは、車はそのまま駐車されたままで、後藤は戻って来た気配はないと報告があった。
 レイモンドは次に後藤の元妻聡子の居所をつかむため、メルボルンにある総領事館に出向いた。
 総領事館は街中にある高いビルの47階にあった。受付で事情を説明すると、領事が出てきて、聡子の住所を調べてくれた。幸いにも聡子は総領事館に住所を届け出ていた。電話番号も分かったので、総領事館を出ると、すぐに電話をした。呼び鈴が鳴って3回もしないうちに女の声が聞こえてきた。
「ハロー」
「ハロー。聡子さんですか?」
相手は聴いたこともない男の声に少し警戒したようだ。
「そうですけど」と、ためらいがちに答えた。
「私はケン・レイモンドという刑事ですけど、後藤さんについてお聞きしたいのですが、今からおうちに伺ってもいいでしょうか?」
30秒沈黙があった。警官を装った強盗だっている時代だから、警戒したようだった。
「お宅に伺ったら警察手帳をお見せしますから」というと、やっと
「では、待っています」と返事がもらえた。
 総領事館で教えてもらった聡子が住んでいるアパートは、メルボルンの東のはずれの郊外にあった。
人っ子一人見当たらないさびしい道を駅から歩いて10分の所にあった。そのアパートは後藤の住んでいるアパートのように防犯用の玄関はなく、そのまま階段を登って部屋の前のドアに行けた。呼び鈴を鳴らすとすぐに聡子が出てきた。
警察手帳を見せながら、
「いまさっきお電話した、ケン・レイモンドです」と言うと、「どうぞ」と言って聡子はレイモンドを部屋に入れてくれた。小さな応接間には、男の子二人が写っている写真が飾ってあった。後藤との間に出来た二人の息子だろう。二人とも小学生のように見えた。後藤の写真は当然ながら見当たらなかった。レイモンドが部屋を観察している間お茶を用意したようで、聡子がコーヒーを持ってきた。
「やあ、すみません」と、レイモンドは進められるままに、応接間のソファーに腰を下ろし、コーヒーカップを手に取った。
「で、後藤について聞きたいということですが、後藤が何かしたのでしょうか?」
レイモンドと向かい合わせにソファーに腰をおろすと、聡子が表情を硬くして、口を切った。
「後藤さんの車がハンギング・ロックの駐車場に停められたままになっていて、行方が分からないのです。何か心当たりのことがあったら、お聞きしたいのですが」
聡子は驚いたような顔をした。
「たとえば、お子さんの親権についての争いなどありませんか?」
レイモンドが一番気になっていることをきいた。
「いえ、そんなことはありませんよ。週末だけ息子たちと会っていますが、それで本人はハッピーなようですよ。普段は仕事で忙しいようですし。離婚する前だって、子供の相手をしてやるのは休日くらいのものでしたから」
皮肉そうな笑いが聡子の顔に浮かんだ。後藤は余り家庭的な男ではなかったようだ。
「それで、今日は、お子さんは?」
「勿論今朝二人を学校に送っていきました」
「後藤さんがハンギング・ロックに遊びに行かれるということを聞かれましたか?」
「いいえ」
「後藤さんは何か悩みをお持ちではありませんでしたか?」
「自殺したっていうんですか?」
聡子も狩野と同じように、そんなこと信じられないという顔をした。
「私も週一回後藤が子供達を迎えに来たり、送って来たりする以外に話すこともありませんから全然悩みがなかったなんて言い切れませんが、そんな風には見えませんでしたよ」
「そうですか」
「後藤がハンギング・ロックで見当たらなくなるなんて、どうなっているんでしょうね」
初めて後藤の行方を気遣うそぶりがうかがえた。
「まず最初に考えられることは、迷い子になったってことですね。ハンギング・ロックは高さ105メートルくらいの余り高くない丘ですが、いたるところ穴が空いていたり、岩の間に隙間が出来ていたりするので、好奇心を出してそんなところに迷い込んでしまうと、ちょっと見つけるのに厄介ですね」
「それじゃあ、迷い子にでもなったんでしょ。あの人は好奇心の強い人ですから」
すぐに聡子は結論付けた。
「でも、迷ったとしても、それほど大きな丘ではないので、一昼夜見つからないということは、ちょっと考えられません。後藤さんのアパートの鍵はお持ちではありませんか?後藤さんの行方を探す何か手がかりになるようなものがあるかもしれませんから、アパートの中を調べたいのですが」
「そうですか。それじゃあ、私も捜査のお手伝いをしますわ。一緒にアパートに行きます」
「そうですか。そうしてもらえば助かります」
二人が後藤のうちのアパートに着いた時は午後2時半になっていた。
 後藤のアパートはいかにも男の一人暮らしだと感じらるものだった。台所用品は最小限も物しかなかったので、外食が多いと思われた。ワインラックには、ワインがたくさん置かれていた。ワイン好きらしい。しかし、男の一人暮しにしては整理整頓が行き届いていた。応接間はテレビとDVD、ビデオデッキがあり、ハイファイの機器もあった。本棚には本よりもDVDが多く、アクション物とポルノまがいの物が多かった。留守電を聞くと、一つだけ入っていた。聡子からのもので、きのうのものだった。
 応接間の片隅に小さな机があって、ラップトップのコンピュータがあった。コンピュータをつけると、色んな書類が入っていたが、ほとんど日本語なので、レイモンドには何が書いてあるか分からない。
「すみません。聡子さん。この中から何か後藤さんの行方を探す手がかりになるようなものがないか、見てくれませんか?」と、本棚のDVDの題を汚らわしいという顔で見ている聡子に声をかけた。
 聡子はすぐにレイモンドと交代して机の前に座り、色んな書類を開けて見始めた。そして5分もすると、
「あら、こんなものがあるわ」と声をあげたので、レイモンドも興味を引かれて
「何です?」と聞いた。
「日記みたいです。これ、随分長いみたい。ちょっと読むのに時間がかかりそう。プリントして家に持って帰って読んでもいいですか?そして何か手がかりになりそうな箇所があったらご連絡します」
その書類は30ページにも渡っていた。しかし、もしも日記なら、重要な手がかりがつかめそうだった。
「そうですね。そうしてもらえれば助かります」
それからその日記らしきものをプリントして聡子は家にもって帰ったわけだが、その日記は日記にしては詳しく書いてあり、まるで小説のようにも思えた。もしかしたら、日記を小説風に書いて、小説を書く練習をしていたのかもしれない。昔から後藤は文を書くことが好きで、日本人コミュニティー向けに発行されている新聞に、随筆みたいなものを連載したこともあるくらいだった。聡子はその日、息子たちを9時に寝かせて、後藤の日記を読んでいった。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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