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ハンギングロック:後藤の失踪(4)

「ママが家にいないんなら仕方ないな。それじゃあ、パパが髪を洗ってやるよ」
 薬局に行って、毛じらみの薬をくださいというのは、気恥ずかしかった。特にカウンターにいたのは20代の美人の店員だったから、なお更である。だから、おどおどしながら小声で、「あのう、毛じらみの薬が欲しいんですが」と言うと、美人の店員はありふれた病名を聞いたときのように、表情一つ変えないで
「ああ、毛じらみにはこの薬がいいですよ」とすぐにシャンプーと櫛がセットになった物をカウンターに置いた。
「使い方、もうご存知ですよね」と言うので、
「いいえ」と言うと
「毛じらみは薬用シャンプーで殺すことができるのですが、髪についている卵は一つ一つ髪をすかして取っていかなくてはとれないんですよ。ですから、新聞紙の上で、髪を何度も何度もすいて、卵をとってください。これが、卵をとるための櫛です。きめが細かいので、小さい卵でもとれます。卵をとるのが面倒でしたら、頭を丸坊主にすると言う手もあります」と懇切丁寧に説明してくれた。
これは大変なことになったぞと思ったが、聡子が家にいないのでは自分でやるしかなかった。
 僕は弘の髪を買ってきたシャンプーで洗ってやり、髪を櫛ですくっていったが、卵は無数についており、取れども取れどもきりがない。僕はとうとうかんしゃくを起こして、弘の頭を丸坊主にすることにした。バリカンがないので、はさみを持って弘の髪を切ろうとすると、弘は丸坊主になんかになるのはいやだと言って、泣き出した。逃げ出した弘を追っかけまわしてつかまえて、暴れる弘を押さえつけて髪の毛をはさみで切れるだけ切って短くした時は、僕はもうへとへとになっていた。
 夕方いつものように、弘と祐一を聡子のところに送っていくと、にこやかな顔で玄関まで出た聡子は、弘の頭を見て目をまん丸にした。
「弘の頭、どうしたの?」
事の顛末を話した後、僕は
「君に連絡とろうかと思ったんだけど、ボーイフレンドとお出かけと聞いたもんでね。邪魔しては悪いと思って連絡しなかったのさ」と付け加えると、聡子は悪びれる風もなく
「お気遣い、ありがとう。おかげで今日は私は楽しい一日が送れたわ」と言った。相手はどんな奴なんだと聞こうとして、やめた。子供の前で言い合いになるのはみっともないと自制心が働いたからだ。それに聡子がどんな奴と付き合おうが僕には関係のないことだと思った。
聡子と別れた理由を周りの者が興味津々で聞きたがるのだが、性格の不一致という以外言いようがない。僕は最初聡子の理知的な感じを漂わせる美貌に惹かれた。涼しい眼に筋の通った鼻。そして小さな口は僕の好みにぴったりだった。いわゆる一目ぼれをして結婚したわけだが、結婚一年目にして僕は結婚したことを後悔し始めた。僕が几帳面な性格なのに、聡子は何事に関しても大雑把なのだ。電気をつけたらつけっぱなし、服は脱いだら椅子の上に脱ぎっぱなしで洋服ダンスに吊り下げるなんて事をしない。小さいことでも、それが毎日のこととなると、気になって仕方がない。それでも子供たちが生まれたので、日本にいた時は離婚をするまでにはいたらなかった。離婚をする決心をしたのはオーストラリアに来てからだ。日本では周りに親類縁者がたくさんいて、離婚のりの字でも言おうものなら猛反対されるのが目に見えていた。その点オーストラリアは3組に1組の夫婦が離婚している。だから、日本のように離婚を大層な事件だとは思われなくてすむ。聡子も僕に毎日がみがみ言われて暮らすのはもう真っ平だというので、協議離婚をしたわけだ。

(「そんなに、私は自堕落とは思わないわ。後藤のほうが神経質なんだわ」と聡子は後藤の一方的な言い方に腹がたった。しかし、聡子は離婚を切り出された時はびっくりして落ち込んだが、今は離婚して自由になれ、幸せに思っているのだ。何が幸いするか分からないと思う。)

11月28日
 月曜日に大学に行くと、ドイツ語プログラムのフレデリックに廊下でつかまった。
「啓介、オーストラリア研究評議会の研究費応募の書類は書き上げたか?」と聞く。僕は、研究室の机の上の書類の山の上に応募用紙を積み上げたままになっているのを思い出した。
「いや、まだだけど。僕なんか応募したって研究費もらえるわけないだろ?」
「いや、今年からうちの大学の全教官応募しなければいけないって副学長からメールが回って来ていたのを読まなかったのか?」
「読んだけどさあ、教授連中でも去年うちの大学で研究費をもらうのに成功したのはたったの二人だろ?準教授の僕が提出したって、もらえるわけないじゃないか。時間の無駄だよ」
「いや、時間の無駄でも出せといったら出せ」と学科の研究推進委員になっているフレデリックは食い下がる。
「はいはい、分かりましたよ」
僕はフレデリックの攻撃から逃れるために、しぶしぶ承知した。
「じゃあ、来週の金曜日まで出せよ」とフレデリックは念を押して、やっと僕を解放してくれた。
 研究室の椅子に座ると、研究費の応募用紙が目に入った。「研究テーマ」「研究方法」「オーストラリア社会にこの研究はいかに貢献するか」の項目を見ただけで、頭が痛くなった。
「ええと、まず、何をテーマにすればいいかなあ」
 僕の博士論文は「日本語と英語のアスペクトの比較」という言語学がテーマだったのだが、論文を書くのに8年かかった。8年も毎日アスペクトの研究をしていると、博士論文が出来たころには、もうアスペクトと聞くだけで蕁麻疹ができそうなくらい、うんざりしてしまった。だから、最近は研究テーマを第二言語習得の研究、つまりオーストラリアの学生の日本語の習得の研究に切り替えた。しかし、学生を使えばすぐにデーターが簡単に集まると思ったのだが、その考えは甘かった。人間を対象とした研究には、まず大学の倫理委員会の許可を得なければいけない。許可を得るための書類というのが十数ページにおよぶもので、「研究対象者と利害関係があるか」と言う項目で「自分の教えている学生」と書けば、即座に不許可になってしまう。学生たちは、先生の研究に協力しないと先生に睨まれると心理的に脅迫され、本当はいやでも参加せざるを得なくなるというのが、その理由である。自分の教えていない学生に協力を求めても、余り人数が集まらない。僕はやる気をなくしてしまった。新しい研究のテーマを考えなければいけないのだが、何とか人間を対象としない研究テーマはないものかと、思い始めた。図書館にでも行って、本でも借りて、研究テーマを絞ろうかと思っていると、狩野さんが僕の研究室のドアをノックして入ってきた。手には労働組合のチラシを持っていて、それを僕に見せながら言った。

 

著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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