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ハンギングロックの謎:後藤の失踪(25)

「ミッシェルさんは、いつケンさんと知り合ったの?」と、狩野が聞いた。

「私達、一緒に暮らし始めて、もう3年になるわよね」と後藤の顔を覗きこみながら、彼の同意を得るようにミッシェルは答えた。それを聞くと狩野の心に動揺が起こった。

「じゃあ、ご夫婦なの?」聞く声が少し震えていた。

「正式には結婚していないけれどね。内縁関係といえばいいのかな」

ミッシェルは笑いながら、あっけらかんとした表情で言った。

確かに後藤は独身だから結婚をするのも自由なのだが、狩野は何だかすっきりした気持ちになれなかった。これでは、後藤がキングレークを離れないのは、無理もない。ミッシェルに後藤の失踪を話したものかどうか、迷った。後藤はミッシェルに何も話していないように思われる。

「狩野さん、そういうわけだから、僕はメルボルンに戻る気は全くないんだ」

後藤はもう話を切り上げたいと思っているのか、そう言ってミッシェルの手をとって、立ち去ろうとした。

「ちょっと待って、後藤さん。まだ話は終わっていないわ」

狩野の声は、自分でも驚くほどに、剣を含んでいた。

狩野の剣幕にミッシェルのほうが驚いた顔をした。

「ケン。一体どういうことなの?」

不思議そうに後藤の顔を見ながら言った。

「この人は、ケンなんて名前じゃないわよ。後藤啓介って人なの」

狩野は、この際全てをぶちまけ、今までもっていた疑問を全部はっきりさせたいという衝動に襲われた。

「後藤啓介?」

「そう。メンジーズ大学で日本語を教えていた私の同僚だった人。後藤さんはハンギング・ロックに行って、行方不明になって5年も経つの。その間、後藤さんの知り合いの人はどんなに心配したか。私もてっきり彼が何者かによって殺害されたのだと思っていたわ。だから、彼は私に、どうして失踪したのか、失踪した後何をしていたのか、説明する義務があると思うわ。大体のことは聞いたけど、子供じゃあるまいし、日常生活がいやになったからって親の責任も投げ捨てて消えてしまうなんて最低だわ」

「え?ケンに子供がいるの?」

「聞いていなかった?二人息子がいるのよ」

「それは、知らなかったわ。私も今までケンがどこにいて何をしていた人なのか断片的にしか知らないので、この際、知っておきたいわ」

ミッシェルも狩野の味方をし始めた。

形勢が不利になったと後藤は観念したらしい。

「二人で一緒になって責められたんじゃ、かなわないなあ」とぼやきながら、

「まあ、じゃあ三人で飲みながら話すか。二人はともかく、僕は素面では話す気にはなれないよ」

と言うので、三人で広場を横切って行った大通りにあるパブに向かっていった。広場は多くのテントが立ち並び、テントから出てくる人、テントに入る人と、人の行き来でてんやわんやしていたが、三人ともそれぞれの思いに沈んでいるためか、黙って周りに目もくれないでパブに入った。パブの中はちょうど夕食前の時間に当たるためか、客は少なかった。丸いテーブルと固い木の椅子が4つほどある奥の片隅の席に陣取った。狩野とミッシェルが腰を下ろすと、すぐに後藤が「何を飲む?」と二人の顔を交互に見ながら聞いた。

「私はビール」

ミッシェルが即座に答えた。狩野はパブに来た経験がほとんどないので、何を注文すればいいか迷っていた。後藤は、狩野の好みを思い出したようで、

「確か、狩野さんは白ワインが好きだったよね。白ワインを注文するね」とバーメイドのいるカウンターに向かっていった。狩野は後藤がまだ自分のワインの好みを覚えてくれていたことに驚いた。

後藤がいなくなると、ミッシェルと狩野の間にきまずい空気が流れた。これと言って話すこともなく手持ち無沙汰であった。

後藤がお盆にビールをジョッキに二つ、白ワインの入ったグラスを載せて戻ってきたときには、二人ともほっとした顔をした。

後藤は二人に飲み物を渡し、座ったところで、狩野が口を切った。

「後藤さん、ハンギング・ロックで失踪したいきさつからもう一度、順序だてて話してくれない?」

一口ビールを飲み、ジョッキをテーブルに置くと、後藤の口の周りにビールの泡がついていたが、それに気づかないのか口を拭いもしないで、後藤が話し始めた。

「『ハンギング・ロックでのピクニック』の映画の影響かもしれないけれど、学生たちにあの失踪事件の解明を宿題に出した後、人間が失踪するって、どんな時だろうと考え始めていたんだ。そんな時、突然日本から電話があって、高校時代からの親友だった中島隆が交通事故で死んだと、奴の奥さんから聞かされたんだ。今まで僕の周りで死んだ人っていなかったから、ショックだったなあ。勿論うちの爺ちゃん婆ちゃんはとっくに亡くなっているけど、同居していた訳ではないから、そんなに衝撃は受けなかったんだ。奴はまだ38歳だったんだ。それを聞いて、僕も一度きりしかない人生を自分の思うように生きてみたいと思うようになったんだ。今までの僕の人生って、親のためとか妻のためとか子供のためとか、絶えず他人のためっていうのが優先してきたように思うんだ。自分だけのために生きてみたいって切実に思うようになったんだ。でもさ、自分だけのために生きるって言っても経済的にどうするかっていうことが一番問題となったんだ。そんな時、ゴーストライターとして頼まれてした仕事が成功して、一人くらいなら十分食べていけるような収入が入ったんだ。頼んできた先生も喜んでね。いろんな人を紹介してくれるようになって、経済的にはゴーストライターの仕事でやっていける自信がついたんだよ。だから、今までの人間関係を一切断ち切って、新しい人生を送りたいという思いが強くなっていったんだ。今まで持っていたものは息子たちにやって、新しい違った人生を送るのに一番手っ取り早い方法は、失踪することだと思ったんだ。勿論、単純に消えうせればいいんだけれど、ハンギング・ロックでいなくなったと思わせるほうが、皆を何となく説得させやすいように思ったんだ。それで、折りたたみ式の自転車を車のトランクに乗せてハンギング・ロックに行ってさ。車を残して自転車で近くの駅まで行って、そこからキングスレークに向かったという訳さ。残った車は売ってその代金を息子の養育費のたしにでもしてもらえればいいと思ったからね。キングレークに来たのはそのゴーストライターを依頼した先生の別荘があって、そこを使ってもいいって言われたからさ」

「じゃあ、ゴーストライターになるっていうのが、あなたのやりたいことだったの?そんなの変だわ」

「勿論ゴーストライターなんてただの生活費を得るための手段で、僕自身は自分で小説を書きたかったんだ」

「私、あなたは教師に向いている人だと思ったし、それに満足していたのだと思ったんだけど、」

「昔は教えることが楽しかったよ。でもさ、10年前の学生と違って、最近の学生は楽をしていい点取ろうとする奴が増えちゃってね。悪い点を取れば教師が悪いって、教師の責任にしちゃうしさ。それに、やれ助成金を取って来いだの金儲けをしろと雑用ばかりに振り回されるようになって、うんざりしたんだよ」

「確かに、そういう面では私もうんざりすることはあるけれど」狩野は小さい声で言った。

「でも、それだったら、どうしてちゃんと辞職しなかったの」

狩野は後藤の説明には、まだ納得しなかった。

「実はさ」と後藤はいたずらっ子のように目を輝かせて付け加えた。

「僕がハンギング・ロックでいなくなったら、皆どんな反応をするだろうかと、ちょっと興味もあったんだ」

「ええ!じゃあ、私たちはあなたのいたずら心に今まで振り回されていたって訳?冗談じゃないわ!」

狩野の声がひときわ大きくなった。

「いやあ。悪いと思っているよ。もう居所を知らせたほうがいいかなと、何度も思ったよ。でも、段々今出て行ったら、皆から顰蹙(ひんしゅく)をかうだろうなと思うと、出て行くチャンスを逃しちゃってね。そのうちミッシェルと会って、一緒に暮らすようになると、ますます今の生活の居心地がよくなったって訳だよ」

狩野は今までの後藤に対する心配は何だったのだろうかと思うと、ぽろぽろと悔し涙が出てきた。

後藤は狩野の涙を見て慌てて「ごめん」と言って深く頭を下げた。

そこでミッシェルが口をはさんだ。

「じゃあ、あなたの名前はケンじゃなくケースケって言うの?」

「いや、4年前にオーストラリア国籍を取ってね。その時ケースケからケンに名前を変えたんだ」

狩野は涙をぬぐうと、「私、もう帰ります」と立ち上がり、すたすたパブから出て行った。後藤が後を追いかけてくるかと思ったが、その気配はなかった。

狩野はすぐに自分の車に乗り込むと、大きく息をして、バックミラーで自分の顔を見た。涙で濡れてお化粧が台無しになっていた。その顔に向かって、「私って馬鹿みたい」とつぶやいていた。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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