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ケリーの母(2)

小池に送られてホテルに戻ったケリーは、ホテルの冷蔵庫に入っていたウイスキーを飲んだが、なかなか寝付けなかった。そして、オーストラリアで一度も嫌な思いをしたことがないと言ったが、一度あった嫌な思い出が鮮明によみがえってきた。

それは、ケリーが小学校2年生の時だった。母と二人でスーパーマーケットに行ったとき、身なりのいい日本人の親子を見かけた。30代くらいのくらいの母親と3歳くらいの女の子だった。母親が女の子に話している言葉で、日本人だと分かった。女の子がハンカチを落としたのに気がついたケリーの母親が、「すみません。これ落とされましたよ」と、日本語で話しかけた。するとお母さん風の女は、にっこり笑って「まあ、すみません」と、ケリーの母親からハンカチを受け取り、「日本の方ですか?」と聞いた。

ケリーの母親は久しぶりに日本語が使えるのが嬉しかったのか、「そうなんですよ」とニコニコしながら答えているところに、ケリーが「ママ、これ買って」と、チョコレートの袋を母親に渡した。ケリーの顔を見たとたん、その見知らぬ女は急に表情を固くして、言った。

「こちらの人と結婚しているんですか?」

「そうです」

「それじゃあ、あなた戦争花嫁?」

その言い方には、人を見下したような響きがあった。

ケリーの母親の顔色がさっと変わり、

「それが、どうかしたんですか」と、挑戦的な声色に変わった。

「別に、どうもしません。ハンカチありがとうございました。じゃあ、さよなら」と言うとその女は子供の手をひっぱってさっさと行ってしまった。女の子が突然の母親の変貌に驚いたように、不思議そうに何度もケリーたちのほうを振り向いてみた。

その二人の後姿を見送りながら、ケリーの母親は悔しさで唇をかみ締めていた。

その時から、母親は日本人と会っても、自分から話しかけるようなことはしなくなった。

 

大学の講演がすんだ翌日、ケリーは呉の町に向かった。東京から呉に行くには、新幹線で広島駅まで出て、呉線に乗り換えればいいが、ケリーを出迎えに広島駅まで行くという連絡を、母親の従姉の孫から受け、広島駅までの切符を買った。いつもは乗り物の中でも、コンピュータを使ったり、研究論文を読んだりと、ケリーは寸時を惜しんで研究に没頭するのだが、その日は、新幹線の窓から見える外の風景を見て楽しんだ。車窓から見える景色は、都会の高層ビルの風景が去ると、田んぼが見え、その田んぼの向こうは山また山で、広大な平原のあるオーストラリアとは違った風景に見入っていた。広島駅近くになると、トンネルが多くなり、余り外の風景を楽しむことができなかった。そして新幹線が広島が近づくにつれて、ケリーの頭に、あの4歳の時の、悲しい思い出がよみがえってきた。

ケリーが4歳の時、両親は離婚してしまった。母が亡くなる前に聞いたところによると、日本にいたときのケリーの父親、ジェラルドは、母にとって、とても頼もしい人だったそうだ。日本人が戦後の食べ物の欠乏にあえいでいるなか、チョコレートやビスケットなどふんだんにケリーの母親、美佐子に貢いでくれたそうだ。「私は食べ物につられたのかもしれない」と母は苦笑いした。美佐子の家族は皆ジェラルドとの結婚に猛反対をした。外国の兵士と結婚するなんて、売春婦くらいのものだと皆が思っていたような時代だったから、呉の名士だった父親は烈火のごとく怒り、親子の縁を切るとまで言った。そんな反対を押し切って結婚したのだが、オーストラリアに行くと、頼もしかったジェラルドは、ただの失業者となり、生活苦にあえぐことになった。美佐子も働こうと思っても、日本人に対する偏見は強く、その上英語がそれほど得意でないため仕事はみつからなかった。そのため夫婦の間で喧嘩が絶えなくなり、とうとう離婚することになったのだ。離婚をしたあとは、食べていけなくなった。そこで、美佐子はケリーを連れて、日本に帰ることにしたのだ。ところが、美佐子が実家に帰って玄関から入ろうとすると、血相を変えた父親が飛び出してきて、「この恥さらし奴が!」と言うなり、美佐子の頬を平手で殴りつけた。そして、立て続けに何度も往復ビンタをくわせた。その時の美佐子の父親の顔は真っ赤になっていて、ケリーには赤鬼のように見え、恐怖に身がすくんだ。美佐子は黙って父親の暴行に耐えた。嵐のようなこの暴行に耐えれば、きっと許してもらえると信じたからだろう。ところが予想に反して、父親は美佐子とケリーを玄関から追い出すと、玄関の鍵を閉めてしまった。行き場のなくなった美佐子は、しばらく玄関の外で呆然としてつったっていたが、気を取り直して、玄関をたたき続けた。「お父さん、ごめんなさい。中に入れてください!」しかし、誰も玄関の戸を開ける者はいなかった。家の者は父親の怒りに触れるのを恐れていたからだろう。美佐子はしばらく玄関をたたきつけていたが、それにも疲れ果て、玄関の側にしゃがみこむと、しくしく子供のように泣き始めた。その一部始終を側で見ていたケリーは、ともかく心細く、恐怖で声もでなくなっていた。美佐子を救ったのは、美佐子の従姉の清子だった。騒動を聞いて駆けつけてきた清子は、うずくまって泣いている美佐子の肩を抱いて、

「美佐ちゃん。今日は、うちに泊まりんさい」と言ってくれた。そしてその晩清子のところに泊めさせてもらったものの、そこに長居もできないため、また船でオーストラリアに戻ってきた。ケリーが日本に来たがらなかった理由は、祖父のあの母親に対する仕打ちを見て、日本人全体が自分たちに対して敵愾心をもっているように思えたからだ。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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