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ケリーの母(最終回)

ジェラルドは、昔のことを思い出すように、言葉をかみしめながら言った。

「ビルと僕とは、状況が違っていたよ。ビルの奥さんの文子さんは、広島の原爆で身内を失って、ビルと結婚しても非難する親戚縁者はいなかったんだ。ところが、美佐子はお前も知ってのとおり、実家は由緒ある家ときている。つまり面子を大切にする家族だったんだ。だから、美佐子と一緒に、美佐子の父親に結婚することを認めてほしいと挨拶に行ったら、剣もほろろに追い返されてしまったよ。美佐子は親戚縁者皆からの非難を受け、呉にいづらくなったんだ。だから、オーストラリアに行こうと僕が言ったら、すぐに賛成してくれたんだ。1952年に呉での勤務を終えて、美佐子とお前を連れて帰ってオーストラリアに戻ってきたんだが、お前はまだ2歳だったから、きっと覚えていないだろうな。その頃のオーストラリア政府は、オーストラリア人の捕虜に対するシンガポールでの日本軍の仕打ちや、ダーウィンを襲撃されたことに対して報復の念を燃やしていたから、日本人の戦争花嫁なんて認めることはできないと言って、最初美佐子を連れてきたときは、5年間の臨時のビザしか出してくれなかったんだ。やっと1956年に日本人でもオーストラリア国籍がとれるようになったけれど」

「ああ、戦争花嫁で、最初に国籍をとったのは、チェリー・パーカーでしたよね。彼女をモデルにした映画を見たことがありますよ」

「そうか」

「確かに、僕の子供の頃は、お母さんは自分が日本人だというのをひたかくしにしていましたよ。だから、日本語を一言もしゃべらなかったので、僕は日本語が全然分からないんですよ、残念ながら」

「あの頃は、日本があんなに経済成長をとげて、オーストラリアにとって一番の貿易輸出国になるなんて思いもしなかったからね」

「今では、中国が一番になりましたがね」

「世の中、随分変わったものだ。ところで、離婚したあと、お母さんはどうしていたんだ?」

「お母さん、一生懸命仕事を探したけれど、なかなか見つからなくて、結局日本に引き揚げたんです。でも、頼りにしていたお爺ちゃんは、相手にしてくれないどころか、お母さんを家の恥さらしだといって、家からたたき出したんですよ。だから、仕方なくまたオーストラリアに舞い戻ってきたんです。必死になって仕事を探してやっと鶏肉工場で鶏の毛をむしり取る仕事を見つけて、朝7時から夜の6時まで働いて、僕を育ててくれました」

「そうか。お前たちも苦労したんだなあ」

他人事のように言うジェラルドに、ケリーはむかっ腹が立ってきた。

「お母さんが、あんなに苦労しなければいけなかったのは、お父さんにも責任があるんじゃないですか!」

「確かに僕にも責任があるけれど、仕事がなかなかみつからなくて、お母さんにあんなに毎日役立たずだとののしられたら、僕の方だって、堪忍袋の緒が切れるというものだ。まあ、離婚なんてものはね、一方的に誰かが悪いっていうものじゃないんだよ。離婚したことのない者にはわからないかもしれないけれど」

「ふうん。そういうものでしょうかね」

「お前は一度も結婚したことがないのかね」

「ええ。お母さんと一緒に暮らしていましたからね。それに研究のほうが忙しくて、結婚相手を見つける時間もなかったし」

「そうか」

話すこともなくなって、話が途切れたところで、ケリーは立ち上がった。

「じゃあ、僕はこれで失礼します」

「もう行くのかね。でもどこに住んでいるか分かったんだから、また近いうちに遊びにおいで」

ジェラルドは、車まで杖をついて見送ってくれた。ジェラルドの側にはレオーニーがいて、「また来てくださいね」と言って、車で走り去るケリーに手を振った。

ジーロングからメルボルンへの帰り道、ケリーはやっと遣り残したことを成し遂げたという充実感に満たされていた。一時は父親を恨んだこともあったけれど、今になって考えれば父も父なりの苦労をしたのだと納得した。そして、心の中でつぶやいていた。敵国の人間だったオーストラリア人と結婚した日本人の母。オーストラリアと言う、敵国だった国で、日本人としてのアイデンティティを隠すように、ひっそりと暮らした母。日本に住む親戚からも冷たくあしらわれ、オーストラリア居住の日本人からは、戦争花嫁として蔑すまれた母。それでも僕のために一生懸命生きた母を、僕は誰よりも愛し、尊敬している。僕は今では胸をはって、皆に言える。僕の母は、戦争花嫁でしたと。

翌年、ケリーはノーベル賞を受賞した。そのニュースが伝わると、新聞、テレビ、ラジオとマスコミから追いかけられる身になったケリーは、マスコミのインタビューに応じて、次のように語った。

「僕がノーベル賞を受賞できたのは、素晴らしい研究仲間がいたからです。そして、何よりも、母の励ましがあったからです。母は3年前に亡くなりましたが、母の励ましがなかったら、今日の成果を挙げられなかったことでしょう。母は、今でこそ日本では死語となった戦争花嫁でしたが、母は、僕に一流の教育を受けさせるために、多くの犠牲をはらってきました。その母の願いに答えられて、僕は非常に幸せです」

この新聞記事を読んだ読者の多くは、ケリーの母親は教育ママで、ケリーはマザコンだったのだと思ったのだが、ケリーの父親、ジェラルドだけは、ケリーの気持ちを理解できた。

「そうだよ、息子よ。お前のお母さんは偉かった」

 

 

参考文献 

Neville Meaney (2007) towards a new vision: Australia and Japan across time. University of New South Wales Press Ltd.

Kelly Ryan (2010)  True love triumphed for Digger Gordon Parker and his young wife Cherry.

 Herald Sun May/25/2010

Momento: National Archives of Australian. Winter 06. Australian women in the British Commonwealth Occupation Force (1946-1952)

Walter Hamilton. Children of the Occupation: Japan’s untold story

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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