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おもとさん、世界を駆け巡る(1)

この物語は、事実に基づくフィクションである。

第一章        おもとさんとフレデリック

 おもとさんは、1843年に江戸で生まれた。1843年と言うと余りにも昔のことで、どんな時代だったか実感がわかない方もいらっしゃることと思う。そこで、1843年に起こった出来事を調べて見ると、江戸幕府の老中、水野忠邦が天保の改革の一環として上知令を出した年である。水野は、眠れる獅子と恐れられていた清国がアヘン戦争で英国に破れたのを聞き、いつか外国勢力が日本にも来るであろうことを察知し、江戸と大阪を基地として日本を防衛するとともに財政の立て直しをするために、江戸四方10里と大阪四方10里を幕府領地にするという上知令を出した。しかし、江戸や大阪周辺に領地を持っていて、替地を余儀なくされた大名や、その大名に多額の金を貸していた商人たちが猛反対。大名はそれでなくてもひっ迫している藩の財政が、替地の引っ越し費用で、ますます首が回らなくなることを危惧し、大名に金を貸していた商人達は、大名に貸した金を踏み倒されるのではないかと言う恐れを持ったための反対であった。結局、上知令が命取りとなって、その年の暮れ、水野は失脚させられてしまった。そんな出来事があった年だった。

 そんなさなか、佐多屋と言う小間物屋の次女として生まれたおもとさんは、近所でも評判の美人だった。家も割合裕福で、お茶だ、お花だ、踊りだとお稽古ごとに忙しく、世の中の騒動を余り感じることもなく、両親に愛されて幸せな子供時代を過ごしていた。しかし11歳になった1853年をさかいに、平和だった江戸の町ががぜん騒がしくなった。それは、アメリカ人のペリーが来航してから、開国するように、幕府に迫ったからだ。そして、それまで異国人を見る機会はあまりなかったのに、アメリカに無理やり開港させられた横浜に外国人居留地ができ、異国人を見ることは、それほど珍しくなくなっていっていた。

 1860年になったある日、いつものお稽古ごとの中でも一番好きな踊りのお稽古の帰り道、馬に乗った外国人が馬を止めてじっと自分を見ているのに気付いたおもとさんは、はっとなった。17歳のおもとさんは娘盛り。美人なので、彼女に見とれる男にでくわすのは、それほど珍しいことではなかったが、異国人の男に見つめられるのは、初めてのことだった。慌てて下を向いて 顔を隠すようにして、小走りで馬の前を通り過ぎたが、うちに帰ってからも、どういうものか胸がドキドキした。これが、フレデリック・ブレックマン、後にタンナケル・ブヒクロサンと呼ばれる男との出会いだった。

 その一週間後、いつもおもとさんがお稽古のために道を急いでいると、おもとさんを待ち伏せしていたように、フレデリックがおもとさんに近づいてきて、声をかけた。

「こんにちは」

なんの訛りもない、きれいな日本語だった。おもとさんはまさか外人が日本語を話すとは思わなかったので、びっくりして、まじまじとその男の顔を見た。すると、その男は、おもとさんの驚いた顔がおかしかったのか、笑顔を浮かべて、

「私は、田中武一九郎です」と名乗った。

「田中って、外人さんではないんですか?」

驚いたおもとさんは、もう一度まじまじとその男の顔を見た。

 日本人の名前を名乗ったその男は、日本人の血が混じっているとは信じがたい。しかし彫の深い顔は外人としか思えないが、黒い髪の毛と黒い目が日本人ぽいと言えば言える。

「僕の母は日本人ですが、父はオランダ人なのです。オランダの名前はフレデリック・ブレックマンと言います」と言った。そして、おもとさんに、

「あなたの名前は?」と聞いたが、おもとさんは、もじもじと下を向いてしまった。見知らぬ男に名前を言っていいものかどうか判断しかねたのだ。

そんなおもとを見て、フレデリックは、

「名前を言いたくないのなら、言わなくてもいいですよ。でも時々話をさせてもらえませんか?」

丁寧な申し出であったが、この頃の日本は親の権力が絶大で、親の許しなくしてつきあうことは、おもとさんには考えられなかった。

 赤い顔をして下を向いていたおもとは、しばらく黙っていたが、3分くらいしてやっと顔を上げたかと思うと、

「そんなことは、おとっつぁんさんに聞いてください」と言って、フレデリックの返事を待たず、駆け去ってしまった。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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