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おもとさん、世界を駆け巡る(3)

「おとっつぁん、どうかしたの」

長兵衛は、目頭を押さえて、

「いや、何でもない。いざお前を嫁にやることになったら、突然泣けてきてな」と言う。そういえば、長女のおさとが結婚するときも、長兵衛は隠れて泣いていたのを、おもとさんは思い出した。

「おとっつぁん、別に遠くに行くわけではないので、そんなに悲しそうな顔をしないでください。横浜はそんなに遠くありませんよ」

「そうだな。そうだな。ただ相手が外人だと、いつ外国に行くことになるやもしれん。それだけが気がかりでなあ」

「フレデリックさんのお母さんは日本人なので、そんなに外国に行くことはないと思います」

「そうか、そうか」と、長兵衛は少し気を取り直し、

「幸せになるんだぞ、おもと」と、おもとが子供の時よくしていたように、おもとの頭を撫ぜた。

 それからしばらくフレデリックから音沙汰がなかった。フレデリックの気が変わったのかと、おもとさんは気が気でなく、不安で眠れない日が続いた。気に病んで1週間を過ごしたおもとさんの前に現れたフレデリックは、やつれて見えた。

「一体、どうされたのですか?1週間も音沙汰がなかったので、心配していました」と、おもとさんは少し非難するような口調で言った。

 フレデリックは、

「いやあ、実はひどい目にあって、それからしばらく居住地を出るのが怖くて、居住地を出るのを控えていました」

初めて会った時の大胆さが消えていた。

「ひどい目に遭ったというのは、お怪我でもされたのですか?」

「顔は殴られたけれど、幸いにも命に別状はありませんでした」

「まあ、誰に殴られたんですか?」

「松平越前守殿の家来にですよ」

「どうしてなんですか」

「いや、横浜に行く途中、松平様の行列に出くわしてね。馬に乗って行列を通るのを眺めていたら、家来から、『無礼者め。馬から降りて、土下座をせんか』と、馬から引きずり降ろされて、頭をこづかれて、土下座させられましたよ」

「まあ、なんてことを」

「最近は攘夷の機運が高くて、外国人とみると、敵意をあらわにして、襲い掛かってくる輩も多いですからね。殺された者もいますから、安心して道を歩けません」と、不安げに言った。

 それを聞くと、おもとさんも、日本人から敵意を持たれる外国人と結婚することに関して、一瞬不安が横切ったが、その不安よりもおもとさんはフレデリックと一緒になりたいという思いの方が勝った。おもとさんは恋する乙女だったのである。その日に、長兵衛から正式に結婚の承諾を伝え聞いたフレデリックは、顔を輝かせて、

「ありがとうございます」と、長兵衛に何度も頭を下げた。本当だったら、二人は抱き合って喜びを分かちたいところだったが、父親の手前、お互いを見つめ合うだけだった。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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