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日本人戦争捕虜第一号(3)

 1942年4月9日、南はニューサウスウエールズ州にあるヘイ収容所に移された。ここには独身の男性専用につくられたた収容所で、ブルームや木曜島から連れてこられた真珠貝の潜水夫が多く収容されていた。真珠貝と言うと、真珠を採取するために真珠貝を取っていたと誤解する人が多いが、戦前は、美しい真珠貝は高級ボタンとしてもてはやされていたので、貝そのものが目的で、採取されていた。南は脱走に失敗したものの諦めきれず、ブルームからきた潜水夫の安村と言う男に、脱走の話をもちかけたが、安村は話に乗って来なかった。安村は、貧しい農村の出身で、日本に帰ってもいいことはないと言い、ましてや、脱走して日本軍のために戦う気もなかった。1人では脱走はできないことは分かっていたので、南は脱走を断念した。
 ヘイ収容所には、オーストラリアにいた日本のビジネスマンも多数いた。もっともビジネスマンたちは捕虜交換船に乗って、早くに帰国してしまった。戦争捕虜や、潜水夫などは、捕虜交換の対象にはならなかった。ビジネスマンたちは帰国する際、南にたくさんの衣類を置いて行ってくれた。
 ここでは1日8時間、道路の補修作業や薪集め、柵作り、牛馬の糞集めなどの作業をさせられた。そして、なにがしかの給金をもらい、それをタバコ銭にすることができた。
  南は几帳面な性格だった。与えられたP.O.W(戦争捕虜)と背中に書かれた小豆色の制服を毎晩整えて、藁の詰まったマットレスの下に敷き、上着はきれいに四角にたたんで枕元に置いて寝た。
 ある日、気の荒い潜水夫と捕虜になった少尉と殴り合いのけんかをはじめたことがある。潜水夫が、少尉が捕虜になったことを馬鹿にしたことが原因だった。南は取っ組み合いを始めた二人の仲裁をかってでて、うまく二人をおさめたのを機会に、ほかの捕虜からリーダーとして一目置かれるようになった。そして、他の戦争捕虜から、作業をして得たお金を預かるほど、信用されるようになった。
 ヘイ収容所時代、南は英語の勉強を熱心にした。5時の夕食が済むと、他の班の英語の上手な人から英語を教えてもらい、毎日消灯時間まで勉強し、段々英語が上達していった。日本にいつ帰れるか分からない状況下において、オーストラリア人の警備兵などと、コミュニケーションをとれないことに不自由を感じていたせいであろう。もう一つ特記すべきことは、司令部の誰かに軍用ラッパをもらい、作業のない時は、収容所の端に行って、吹いていたことだろう。後に起こるカウラ暴動で、突撃ラッパを吹いたのは、南だったのだが、そのことは後で述べることにする。

ちょさk

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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